松浦四郎若2daysの打ち上げにて。四郎若・秀敏両師と並んで撮っていただいた。光栄です。これは家宝にすべき写真だな。
紅楼夢原稿をやったり四郎若公演の準備をしたりしているうちに9月が終わってしまった。しばらくサボっていた、目標金額への進捗率計算をしてみてびっくり。9月はなんと、49.21%に留まっていた。8月も未達だったが80.24%だったのでさらに悪い。目標金額自体も8月より9月は下だったので、今年の最低成績になってしまった。反省しなければいけない。本業をやって、きちんと稼げていればこその趣味である。逆に言えば、趣味をやるためには本業で結果を出していなければいけない。趣味の人であり続けるために頑張れ、私。
毎月の目標金額として設定しているのは、基本的に日銭仕事のもののみである。たまにある単行本の印税などは別に考えている。『芸人本書く派列伝』の印税が今月は入る予定なのだが、それはできれば手つかずで残しておきたいところだ。印税はボーナスぐらいのつもりでいないとライター稼業は務まらないのである。たまに入るあぶく銭のほうが主になって書き仕事がおろそかになっていく人をいっぱい見てきた。
ライターにもいろいろ種類があると思う。私は、長続きするライターはこつこつと日々原稿を書き続けられる人だと思っている。サブカルチャーのスターとして祀り上げられたり、プロデューサー的な地位に就いたりすると、どうしても日銭仕事の比率が低くなってしまうのではないだろうか。もちろんそういう派手な仕事のほうが実入りはいいはずである。私もテレビの特番監修をお手伝いして100万円だかをいただいたことがある。これが毎月あれば極楽、と思ったが仕事は荒れただろう。幸か不幸かその特番は、レギュラー化に失敗して一回こっきりで終わった。
ある程度自分を知っているつもりでいても、度を越してちやほやされたら増長しない自信はない。うぬぼれて、他人に与えられた地位ではなくて、自分で勝ち取った、ぐらいのことは思うようになるのではないか。そこから他人を見下したり、権力者に媚びたりし始めるまではあっと言う間である。当然人間性は文章に出るだろうし、つまらないライターになるだろうとも思う。私は、という話なので誤解せぬよう。そういう境遇になっても増長しない方もいるだろう。
思えば、私がライターとしてデビューした1990年代は、ライターの社会にも階層があり、上下関係を意識する人が多かったように思う。一つの特徴として、群れていた。群れとしての意識が、個人のそれを上回るようなことも、時と場合によってはあったように思う。いつか仕事を回してやるから、みたいなことを言われた体験は一度や二度ではなかった。今にして思えば、そういうことを言うような人間から回ってくる仕事など、ろくなものではないはずなので、完全に無視すればよかった。
2000年代以降になって景気下降が明らかになり、出版業界が縮小し始めると、こうした階層には意味がなくなった。ネットが媒体として定着して、過去のしがらみから自由な書き手が増えたことも大きいと思う。いばりんぼを敬わなければならない理由がなくなったわけで、健全なことだった。ライターはコツコツやるもの、という本来の形に戻ったのである。今のほうが食うには厳しいが、環境としては気楽だと思っている。出版社の庇護がなくなったため基礎知識の共有ができなくなり、ライターが個別に分断されてしまったという別の問題はあるが、群れるよりはいいと思う。
コツコツやっていく能力のない人は、ライターとしてどんどん脱落していった。曖昧にぼかして書くが、ある媒体で人気のあった連載が突如として打ち切られたことがあった。理由は、著者が多忙を理由に品質の低い原稿を書いてきたためだ。その内容を品質が低いと断じた編集部は見識が高かったと思う。著者に対しては、また以前のような内容の原稿を書いてくれるのであれば、いつか再開しましょうと約束したというが、それは果たされなかった。地位にあぐらをかき縮小再生産をして恥じない書き手は淘汰されるしかない。きわめて当たり前のことである。
ライターが他のメディアに出演してスター化していくのは格好いい。憧憬の対象になるかもしれないが、仕事の本質ではない。こつこつ書くからライター、書く仕事だからライター。そのことを忘れた瞬間が終わりの始まりだと私は思っている。