杉江松恋不善閑居 浅草木馬亭五月定席四日目と「港家小ゆき之会」(含む美當一調のこと)

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某月某日

午前9時から動画の撮影。古本の話でいろいろと。サークル〈腋巫女愛〉の同人誌在庫管理をエクセルで表にしていたのだが、パソコンを替えたら見られなくなった。仕方がないので新たに作り直したら、午前中は撮影とそれでつぶれてしまった。棚卸だと思ってもくもくと作業する。名華祭新刊『博麗霊夢、待ってました』と例大祭新刊『お先にどうぞ、博麗霊夢』はメロンブックスととらのあなで委託販売しているので、買い逃した方はぜひそちらで。

『博麗霊夢、待ってました』メロンとら

『お先にどうぞ、博麗霊夢』メロンとら

午後から外出する。浅草木馬亭公演四日目は天中軒雲月主任日で、亡くなった澤孝子師の追善特集。澤一門+雲月会長という形で急遽座談会も行われた。トリは雲月「忠僕直助」で大儲けの公演であった。

終演後しかるべき相手にちょっと挨拶をして離脱、神田連雀亭で港家小ゆきさんが、広沢美舟さんの三味線で宮崎滔天を題材にした新作「三十三年の夢」と「うしえもん」を読むのである。滔天は憂国の烈士で世界革命を夢見ている間になぜか浪花節に接近し、桃中軒雲右衛門に弟子入りして牛右衛門を名乗るという頓珍漢な人生を送っている。功績は大きく、孫文と頭山満らの玄洋社を結び付けて辛亥革命への橋渡しを行ったのが政治史、雲右衛門の九州巡業に助力し、東上して大看板となる礎を作らせたのが芸能史と、それぞれなくてはならない働きをしている。

桃中軒雲右衛門はそれまで卑しい芸として蔑まれていた浪花節に、舞台で立って口演する形を持ち込み、現代に至る様式を確立した人物である。雲右衛門前後で浪花節は大きく変わるのだ。この、立って口演する形は政治演説に着想を得たと言われている。九州時代に見聞した演説の影響というわけである。

昨日の港家小ゆきさん口演でもその点に言及されていたが、実は熊本にはもう一つの源流がある。日清戦争の軍記を語って人気となり、後に日露戦争も手掛けた軍談語りの美當一調である。一調は宮崎滔天と同じ肥後武士の生まれだ。滔天よりもはるかに家格は上だが、それを捨てて芸人になった。この軍談は基本的に講談に近いのだが、弟に三味線を弾かせた口演も行っていたので、現地で言うところの浮かれ節、後の浪曲からの影響もあると思われる。熊本には肥後琵琶の伝統もあるので、そちらとの関係も考える必要があるだろう。私は昨年、熊本に旅行して一調の資料を調べ、墓参りもしてきた。

その一調がやはり、立っての演説形式で舞台を務めていたのである。講演会から演説用のテーブル掛けを何枚も送られ、使用した。それが浪曲におけるテーブル掛けの源流ではないか、というのが、元熊本大学文学部教授・安田宗生が『国家と大衆芸能 軍事講談師美当一調の軌跡』(三弥井書店)で唱えている説である。これは納得できるものだ。一調の全盛期は雲右衛門の九州巡業よりも前だが、もちろんそのころも精力的に口演を行っている。二人は九州でニアミスしているので、雲右衛門が滔天の舞台を目にしている可能性は大だろう。いずれ一調については私もなんらかの形で文章にしたいと思っている。

終演後は神保町で食事をしておとなしく帰る。途中で某社から仕事の打診があって、基本的には受ける、とお答えする。即答してもいいのだが、ちょっと確認が必要な案件なのだ。自分への仕事を受けたので、勤務評定は1.0。

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