活字プロレスの歴史にちゃんと向き合おう 斎藤文彦『昭和プロレス正史(上)』刊行記念トーク(上)

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2016年にも多くのプロレス関連本が刊行された。その中で杉江が最も感銘を受けたのが、斎藤文彦著『昭和プロレス正史(上)』(イースト・プレス)だったのである。プロレス記者の草分けである田鶴浜弘、日刊スポーツを主戦場として原稿を量産した鈴木庄一、東京スポーツ記者として現在のプロレス〈神話〉成立に一役買った櫻井康雄らを中心に、いかにプロレスが「語られてきたか」を再検討し、それがどのような史観に結実したかを多くの資料によって確認しようとするものだ。その歴史的手法というべき書きぶりに魅了されてしまったのである。

ここに紹介するのは、新宿5丁目のトークイベント会場HIGH VOLTAGE CAFEに斎藤氏をお招きして話を伺った際の記録だ。斎藤氏は週刊プロレスにおいて長く海外プロレスの現況を紹介されてきた。同時に、レスラーの人となりを窺い知ることのできる貴重なコラムの書き手として、ファンからの敬愛を集める方である。その談話に、氏のプロレス・ジャンルへの愛情を見て取ることができる。ぜひご賞味ください。

なお、『昭和プロレス正史(下)』も発売間近である。ぜひご購読を。

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■活字プロレスの始まりはプロレス・ノベルだった

斎藤 最初は別の企画があったんです。あるベテランレスラーの伝記本を作ろうという話になって取材も進めていたんですが、駄目になってしまったんですね。編集の藁谷さんと善後策の打ち合わせをしていたら、「あれ、ひょっとしたら、こういう本を書いたほうがおもしろいんじゃない?」という案が湧いて出てきたんです。

杉江 『昭和プロレス正史』は、偶然の産物だったわけですね。

斎藤 日本のプロレスに関する活字の記述は、出典の出典の出典を突き止めていくと、田鶴浜弘さん、鈴木庄一さん、もっとうんと若いんですけど櫻井康雄さん。この3人に絶対たどり着きます。でも、その3人がてんでばらばらなことをお書きになっている場合も多いんですね。それはもしかすると精査可能なんじゃないかと考えたことが第一です。また、日本のプロレスの始まりは1954年の力道山・木村政彦対シャープ兄弟戦だということになっていますが、実際には力道山以前に海を渡ってアメリカでプロレスラーになった人は実存します。ソラキチ・マツダしかり、それ以外にも何人かはあるんですけど、活字化されたプロレスはだいたいそのシャープ兄弟戦が起点になる。そして同年の12月に早くも実現しちゃう、力道山対木村(政彦)の巌流島の決闘。本当だったらそれが物語のクライマックスであろう大事件です。1954年にその二つの出来事が起こりますが、さかのぼってもたかだか60年ちょいなので、その気になれば調べはつくだろうと。プロレスに関してはありとあらゆる活字は調べられるんじゃないかな、ということを感じました。

杉江 一次資料にも当たれますしね。

斎藤 僕は子供のころからプロレスマニアで、小学校二年生のときに親に買ってもらった最初のプロレス本は東京スポーツの山田隆さんがお書きになった秋田書店の『プロレス入門』なんです。さらに田鶴浜さんが恒文社から出された〈プロレスシリーズ〉が新書版で5冊。それはフランク・ゴッチとジョージ・ハッケンシュミットの戦いであったり、力道山とルー・テーズの友情物語であったり、「プロレス・ニッポン/世界をゆく」と題されたアメリカで活躍した日本人レスラーのことであったり。そういう逸話を子供なりに穴が開くほど読んだという記憶があって。それで、実際今でもぼろぼろになった状態で持っているんですね。何回か引っ越ししたりしてなくなった巻はマニアの知り合いにコピーを取らせてもらって自分用に一冊作って。

杉江 お気持ちはよくわかります(笑)。

斎藤 田鶴浜さんは著作がとっても多いかたで、80歳になるまで単行本をお出しになっていました。たぶん自分の手書きの元原稿をちゃんと持っていた方だと思うんですね。で、そのセルフカバーといえばいいんでしょうか、何度かお書きになったようなお話を何バージョンかに分けながら、かなりご高齢になるまでプロレスの本をお出しになっていた。それも僕はほとんど持ってると思うんですね。この本の最初にも書きましたけど、「活字プロレス」というジャンルがあるとしたら、僕はそれをお作りになったのは田鶴浜先生だと思っています。というのは、力道山がこの世に出現していても、いなくても、田鶴浜さんはプロレスのことをお書きになったわけです。1937年にニューヨークまで行ってマディソンスクエア・ガーデンでプロレスの試合を見ちゃった人ですから。

杉江 力道山が出発点ではなかったはずだと。

斎藤 最初の書物である『世界の選手たち』という、終戦後4年目の1949年にお書きになった、いろんなスポーツ選手が出ている本の中にスタニスラウス・ズビスコをテーマにしたお話があるんですが、これはどう読んでもノベライズなんですね。ズビスコが戦ったシーンに田鶴浜さんは立ち会っていないにもかかわらず、選手とアナウンサーのやりとりがカギ括弧で書かれている。それは「プロレスノベル」であり、ニュース性のある、記事としての活字に先行する形でそれは始まっていた。プロレス活字の始まりはすでにフィクションというか、文学的な色を帯びていたんだ、というのが一つの発見でした。

■3人のナラティブがプロレス史を作った

杉江 『昭和プロレス正史』の特徴は、活字になったプロレスに着目した点です。田津浜弘・鈴木庄一・櫻井康雄という3人のプロレス記者を中心に、彼らの語り=ナラティブを比較する形で、それぞれの出来事が検討されていきます。

斎藤 田鶴浜さんは日本におけるプロレス記者第1号で、シャープ兄弟戦ではテレビ放送の解説席に座っていた。「プロレスマスコミのお父さん」であることは確かなんです。明治生まれの田鶴浜先生と大正生まれの鈴木庄一さんは、力道山とシャープ兄弟の試合よりも3年さかのぼる、1951年のボビー・ブランズ一行のプロレス興行をご覧になっています。それは進駐軍慰問の性格を帯びた興行で、メモリアルホールという名前で接収された旧両国国技館で行われます。その興業に日本側の代理人みたいなかたちで関わったのが鈴木庄一さんで、やはり日本のプロレスの歴史の第1ページ目からちゃんと参画してらっしゃいます。やっぱり鈴木庄一さんもプロレスマスコミと活字プロレスのお父さんの一人なんですね。

杉江 なるほど。

斎藤 そして、後に一党独裁みたいなかたちで活字プロレスを量産し続けることになる「東京スポーツ」というマスコミで一番活躍されたかたは櫻井(康雄)さんなんですね。櫻井さんは昭和12年生まれで幼いころに戦争体験がおありになり、後に活字プロレスの親玉のような存在になります。田鶴浜、鈴木、櫻井。この活字プロレスを作った3人は時間軸上では居場所がずれていますけど、それを並行に並べていくとどうなるかということを考えたわけです。

杉江 その三方では鈴木庄一さんの知名度が少し下がりますか。

斎藤 でも、書籍化されていないものを入れれば、書いた原稿の数はおそらく鈴木庄一さんが一番多いんです。日刊スポーツで書かれて、記事として消費されて、活字として残ってないもの。それから月刊プロレスの編集顧問時代に書かれた「プロレス時評」や「日本プロレス史」といった連載。これは毎回400字原稿用紙で優に20枚ぐらいある連載が10何年ぐらい続いているのに、なぜか書籍化されていません。鈴木庄一さんがお書きになったプロレスのニュース的なものに関してはもっとも資料的価値が高いです。

杉江 本にも出てきますが斎藤さんは鈴木さんとお会いになっているんですよね。

斎藤 はい。僕がうーんと若い、週刊プロレスの記者としては一番小僧だったころです。鈴木庄一さんが編集部に来るとみんなパッと下を向いて誰もしゃべらないんですね。また鈴木さんは自慢話が多いので、みんながあんまり相手にしないというか(笑)。でも、僕はたぶん気に入られていたのか、お会いするたびにそれこそ30分~40分立ち話をしていました。週刊プロレスが始まった時点で鈴木さんは60歳、僕は22、3です。さっきも言った月刊プロレスで膨大な量の原稿をお書きになっていたのが、週刊プロレスになった途端に活版ページの四分の一のスペースの「週刊時評」になった。1200ワード程度しかありません。鈴木さんはその頃何をお書きになったのかというと、新日本プロレスのパンフレットをほとんど一人でお書きになってたんです。

杉江 あ、そうなんですか!

斎藤 はい。新日本プロレスに机があった、ということもありますけども(笑)。あの方は僕らのような取材ノートじゃなくて、原稿用紙になんか書いちゃひっちゃぶく、原稿用紙になんか書いちゃひっちゃぶくというスタイルで、200字詰めの原稿用紙を3 束ぐらいかばんの中に入れていて、何かっていうとそれを出してメモを取り、実際に書いてくる原稿もそれを使っていました。いわゆる半ぺらの原稿用紙ですから20字詰めですよね。原稿は雑誌によって12字詰め、17字詰めなんていうのもありますけど、それは自分でえんぴつで線を引いて自分で作っていた。昔は初稿の段階で元原稿がくっついてきて戻ってきたりしていましたから、庄一さんはそれを几帳面に残しておかれたんじゃないかと思うんですね。というのは、月刊プロレスの「日本プロレス史」、デラックスプロレスの「もうひとつのプロレス史」など、何回か焼き直された連載もあるんです。僕が直接お聞きした内容も割と正確でしたから、おそらくは残しておられただろうと。そういう意味では資料的価値がものすごく高い。

杉江 メモの蓄積がプロレス史を形作ったわけですね。

斎藤 実は、3人の中でいちばん若い櫻井さんが書かれたものがもっともフィクションなんですよ。それはまあ、東スポという媒体の性格上のことかもしれませんけど。ただし、今の読者が現時点で購入できる著作というと、櫻井さんのものばかりなんです。『激録力道山』『激録馬場と猪木』あたりは古本で買えるんですけど、田鶴浜さんの著作は、もうAmazonにも引っかからない。今の若者がプロレスをお好きになってくれたら僕はすごく嬉しいですし、30年40年とプロレスを見てくれるファンが育ってくれることを僕はとっても願っていますけども、彼らが何かを調べようとしたらまずグーグルに行きますでしょ。そこで「力道山」とか「ジャイアント馬場」なんてキーワードを入れると、大体においてウィキペディアに行っちゃう。ウィキペディアが「最初に目にする、正しいと思われる情報」なんです。でも、ウィキペディアには正しい情報と誤った情報がまったく精査されずに掲載されていて、中には「これはないだろ」というようなものもあります。で、Amazonだと3人の中でいちばん若い櫻井さんの書籍しかない。それがネット世代にとっては「資料」になっているんです。

杉江 アクセスが難しいものは「無い」ことにされる可能性がありますね。

斎藤 この本の頭のほうにもありましたけども、「力道山がプロレスというものに出会った」エピソードとは、銀座と新橋の間にある銀馬車というナイトクラブで、相撲をやめて飲んだくれてた力道山とハロルド坂田が喧嘩をして、「お前は強いからプロレスラーになれ」って言われ、ボビー・ブランズ一行がジムとして使っていた飯倉のほうの建物に行って、そこで力道山がプロレスを教わったという「物語」です。たとえば10年ほど前の韓国映画の「力道山」でも、そのエピソードがそのまま映像化されていました。力道山とハロルド坂田が酒場で出会っても全然いいと思うんです。だけど酒場で喧嘩はしていないでしょう。「お前が強いから」とかなんとか言ってプロレスに誘ったということもたぶんない。その夜よりもさかのぼること半年前からボビー・ブランズ一行の来日は決まっていて、国内初のプロレス公演になるということで毎日新聞に出た記事では「大相撲をやめた力道山も出場予定」とすでに書かれているわけですね。もうすでにコネクションはあるはずなんですよ。相撲をやめた力道山は新田建設というところで資材係、つまり工事現場の現場監督になりますが、そこは進駐軍関連の建設の発注先でもありましたから、GHQマネーともすごく近い場所にいました。でも、フィクションとファクトが入り混じる活字プロレスとしては、「ナイトクラブで力道山とハロルド坂田が乱闘した」ほうがいいわけですよね。そっちの話をアダプトしたものが二次使用され、伝聞の伝聞の伝聞ということになっていって、プロレス史実として定着していくんです。

杉江 今はそうやって二次、三次の情報ばかりが蓄積していく状況です。

斎藤 そこは「こういう記述がある」「こういう記述もある」と指摘するしかない気がしますね。たとえば田鶴浜さんが書かれたものでも同じエピソードで5バージョンくらいあったりします。櫻井さんがお書きになった『激録力道山』の第一巻の中では、その力道山とハロルド坂田の出会いのシーンが何ページにも渡って、「なんだこのやろう」「ファックユー」というカギ括弧つきの会話が続く小説的な場面になっています。それはそれで櫻井さんワールドというか、東スポ的なプロレス話として生き続けるのでしょう。でもそれは実録「小説」なので「本当のことを知りたい人はあんまりそっちばっかり信じちゃダメよ」ということも少し言っておいたほうがいいかなという気もします。

■インターナショナル王座奪取という不思議な事件

杉江 今、大河ドラマで「真田丸」をやってますけど、大阪落城の場面では関係者が全員死んじゃってよくわからないはずの評議の模様とかが事実のように出てくるわけですよね。それに限らず歴史講談的なものはおもしろいですから、それを切り口にして、みんな太閤伝なんかを歴史のように思いながら読む。「蜂須賀小六に橋の上で会った」風な記述というのは講談のものであって史実としてうんぬんするべき問題でもないんですけども、豊臣秀吉が蜂須賀小六と会った、ことは間違いない。どっかの時点で絶対会ってるはずです。

斎藤 力道山とハロルド坂田と一緒ですね。

杉江 そうですそうです。僕は『昭和プロレス正史』の中で膝を打つ文章にたくさん出会いました。たとえば101ページの「力道山とプロレスの出会いは本当にハロルド坂田との酒場での遭遇がきっかけだったかもしれないし、力道山と坂田の喧嘩は全くのフィクションであったかもしれない」という箇所ですね。そこに歴史学的センスをすごく感じます。プロレスは個々の事件が印象的ですが、その集合体が歴史というわけではないんですよね。そういう意味ではインターナショナル王座の章も興味深いと思いました。

斎藤 平成のプロレス界においても全日本プロレスの三冠王座の中のひとつとしてインターナショナル王座はちゃんと残ってるわけですから、そのルーツって本当はとっても大切なものなんですけども、これがまた昭和の「NWAは世界最高峰」というナラティブと一緒で、王座の出自がとても不思議なんですね。一番有名な話では、ルー・テーズが世界をツアーして、無敗のまま世界王座を守ったことでNWAがその功績をたたえて「インターナショナル王座」というものをルー・テーズに与えたという話です。そのインター王座を奪ったのが力道山だということで日本にインターナショナル王座というのがずっと根付くんですけど、実際はNWAがインターナショナル王座なんてものを認めていたということはない。

杉江 王座奪取の経緯というより、ベルトそのものが怪しい。

斎藤 力道山がロサンゼルスでルー・テーズに勝ってインターナショナル王座を奪うのは1958年8月なんですけども、その前年にルー・テーズが世界ツアーをして無敗だったからインター王座という新しい称号をNWAからもらった、という説明がされます。でも、その世界ツアーをした段階ではルー・テーズはNWAチャンピオンでさえないんですね。ディック・ハットンに王座を落として、それでヨーロッパ遠征に行っているわけです。ただ、ヨーロッパ遠征に行った先ではやっぱり世界チャンピオンなんです。つまり誰が認めようが、ヨーロッパでツアーをしているときのルー・テーズという人は、ヨーロッパのオーディエンスとヨーロッパのプロレスのプロモーター、またそのヨーロッパ公演ではやっぱりチャンピオンなんです。

杉江 「チャンピオン」であることが求められる存在だったということですよね。

斎藤 力道山とルー・テーズが昭和33年の8月に試合をしたことは確かだろう、と思います。しかし、勝ったか負けたかわかんないような3本目の決着であっただろうこともおそらく本当です。当時のプログラム、パンフレットなんか持ってる人は裏の対戦カードのところに勝ったほうに○をして帰るわけですね。

杉江 今でもボクシングのパンフレットでやります。

斎藤 はい。その試合を見たアメリカの高齢のプロレスマニアがそうしたプログラムを持っていたんですが、ルー・テーズに〇がついていたんです。その会場にいた観客にとっては、ひょっとしたらルー・テーズが勝ったように見えた試合の終わり方だったのかもしれない。

杉江 少なくともすっきり力道山が勝ったような試合ではなかったんですね。

斎藤 そうでしょうね。その前年・前々年に力道山がハワイに行ったときは、自分が飛行機を降りるところから、町を車で運転しているところから、ジムで練習しているところから、実際の試合から、ぜーんぶカメラを回して撮らせてる。なのに、このロサンゼルスの試合だけはなぜか映像に残してないんです。日本テレビの金曜夜8時の、三菱電機一社提供のプロレス中継が始まるのがそのすぐ翌月の1958年9月からですから、インター王座は新番組用のタイトルということもあるのかもしれませんが、他の海外遠征のときには用意周到にすべてを映像を納めていた力道山が、なぜか「ルー・テーズに勝つ」というすごい大切であるはずの試合映像は残していないんですよ。

杉江 非常に怪しいですね(笑)。『昭和プロレス正史』で斎藤さんが詳しく比較されていますが、テーズと力道山の三本勝負について、田鶴浜・鈴木・櫻井の勝敗に関する記述がばらばらで、しかも各人それぞれ複数バージョンのナラティブが存在するとのことでした。

斎藤 試合展開もまちまちだし、インターナショナル王座と言われているタイトルの出自も、田鶴浜さんは「1949年にルー・テーズとアントニオ・ロッカが戦って決められたタイトルだ」と言うし、鈴木さんのナラティブには「NWAから栄誉を称えて贈られた王座だ」とある。でも、それだとしたら「ルー・テーズは世界王座とインター王座の2本のベルトを持っている」という記述がそれより前になければいけないのに、そのナラティブは後からしか出てこないんです。

杉江 後付け感がありますね。僕がすごくおもしろいと感じるのは、それでもインターナショナル王座の権威が日本では確立されているということです。

斎藤 そうです。それは今でもあるし、力道山は亡くなるまでそのベルトを大切に守り続けた。1963年に力道山が亡くなる年の、例えば力道山対デストロイヤーなどのテレビ映像を観ると「インターナショナル王座」とさえ言ってないんですね。リングアナウンサーは「世界選手権!」とコールしている。時の自民党副総裁大野伴睦が認定書を読んで「世界選手権試合であることを宣言する」なんて言っている。わかりやすく言えば「ルー・テーズという20世紀の偉大なレスラーからのれん分けされた、世界チャンピオンシップ」なんでしょうね。活字プロレス的に検証すればインター王座なんでしょうけど、大野伴睦的には「世界選手権」、日本テレビ的にもそれでいい(笑)。それが視聴率50パーセント超の力道山・デストロイヤー戦で、世界選手権試合として放送されて、みんなも楽しんだわけですから。「インター王座」の部分は単なるディテールでしかないかなと。「日本に来た世界タイトル」であるということは確かですから。

杉江 歴史の中で個人の役割というのが問題になるときがあると思うんです。すごく極端な例を言うと「ヒトラーが出なかったらナチスは存在しなかったのかどうか」という問題なんかがそうですよね。歴史における個人の役割という重要なテーマですけど、それと同じことだと実は考えています。力道山ハロルド坂田の喧嘩があるかないかとか、そのインターナショナル王座のいわれだというようなディテールは、たとえそれがなくても同じ筋に合流していた可能性がかなりある。ただ、オールドタイマーの証言を掘り起こすことで歴史を再構成すると言いますか、そういう形でディテールを増やして歴史を補強する作業は重要なので、新事実の掘り起こしは大事だと思っています。

斎藤 急がないといけないと思います。力道山を実際に取材されたマスコミのかたは、皆さんもうほとんどお亡くなりになられていて、ジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんのお二人を実際に取材したかたも本当に減りつつある。僕なんかが一番若いほうだと思うんですね。菊池(孝)さんもお亡くなりになったり、門馬(忠雄)さんはご存命ですけれども、どっちかというと「選手と一緒に飲んだ話」という紀行もの、サブジャンルが専門のかたなので。

杉江 巡業の話はほとんどそれですね(笑)。

(つづく)

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