杉江の読書 『ムーミン谷の十一月』(講談社青い鳥文庫)

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 トーヴェ・ヤンソンは物語の枠から登場人物を解放し、同時に読者をもそこから自由にしてみせた。しかしそれは訣別を意味しているのではない。虚構と現実の間に距離を設けることによって、読者は物語と自分の関係を見直すことができる。そして、いつでも任意の時にそこに戻っていくことができるのだ。客体化された物語は、懐かしい心の故郷になる。

シリーズ最終作『ムーミン谷の十一月』は1970年に発表された。ムーミン谷に秋の気配が忍び寄って来たある日、スナフキンはいつものように旅に出た。ムーミントロールに置き手紙をするのを忘れたが、それは少しも大事なことではない。旅に出て、やがて帰って来る。そのことはお互いに承知しているのだから。しかし秋が深まったある日、彼は大事なものをムーミン谷に取りに帰らなければならないことを知る。雨の曲を作るために大事な五つの音色を、ムーミン谷に置き忘れてしまったのだ。急いで懐かしい場所に戻るスナフキンだったが、やっとたどり着いた家にムーミン一家の姿はなかった。代わりにそこにいたのは見慣れない人々だ。彼らもまた、それぞれの理由があって一家に会いにやって来たのだった。六人の取り残された者たちは、主不在のムーミン屋敷で共同生活を送り始める。

若いころの習作を除けばほとんど一般小説を書いてこなかったヤンソンは、1960年代後半になって執筆を始め、1971年に最初の短篇集『聴く女』を発表している。彼女は『ムーミン谷の仲間たち』の前に父ビクトルを、本書の前に母シグネを失くしている。それぞれムーミンパパとママのモデルであったはずで、一家の物語から自身を解放する目的もこの作品にはあったのではないかと推察する。本書にはムーミントロールという中心こそ不在だが、それでも物語は成立している。どの個性もみな同価値であり、同じように存在を許されるというヤンソンの考えが最も端的な形で結実しているのだ。優しい人だと心から思う。

(800字書評)

トーヴェ・ヤンソン『小さなトロールと大きな洪水』(講談社青い鳥文庫)

トーヴェ・ヤンソン『ムーミン谷の彗星』(講談社青い鳥文庫)

トーヴェ・ヤンソン『たのしいムーミン一家』(講談社青い鳥文庫)

トーヴェ・ヤンソン『ムーミン谷の夏まつり』(講談社青い鳥文庫)

トーヴェ・ヤンソン『ムーミン谷の冬』(講談社青い鳥文庫)

トーヴェ・ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』(講談社青い鳥文庫)

トーヴェ・ヤンソン『ムーミンパパの思い出』(講談社青い鳥文庫)

トーヴェ・ヤンソン『ムーミンパパ海へ行く』(講談社青い鳥文庫)

トーヴェ・ヤンソン『ムーミン谷の十一月』(講談社青い鳥文庫)

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