杉江松恋不善閑居 ひとに期待しすぎるのは互いに迷惑だから全部捨ててしまおう

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某月某日

午前中に坂嶋竜さんと「文庫大研究」の収録をして、後はひたすら仕事読書の一日。浅草木馬亭に行く余裕もなかった。

単行本の担当をしてくれている編集者から二社同時に連絡がくる。一つはもう決まったスケジュールなのだが、後から入ったもう一社のものが、思ったよりも早くなっていた。一社の初校を戻すと次の初校、それを戻すと最初のほうの再校というように、二つをあやとりのように進めることになりそうである。本当は、もう一つのほうは年末くらいにゆっくり取り組みたかったのだが、これは仕方ない。仕事は自分の思い通りにならないものである。前倒しはいいのだが、もともと8月には東方紅楼夢の原稿を上げ、9月に博麗神社秋季例大祭を、と思っていたので、そこの時間確保だけが心配だ。あとはなんとかなる。

ネット上でちょっと目にしたことがきっかけで、自分の人生から外したものについて考えた。外からは見えないようにしてあるが、実はいろいろ外している。もうあの手の集まりには顔を出さないと決めていることがあるし、ああいう人たちと交わってもうまくいかないだろうと肚を括り、心の中で付き合いを断ったものもある。

それらには義理や、顔を売っておけば後でこちらの言うことも聞いてもらえるだろうという計算でつきあっていたのである。

だが、義理事はその場限りのものにしたほうがいい。向こうから押し付けられる義理は仕方がないから受けるが、こちらからそれをやるのは慎みたい。どんなに面倒なものかは自分がよくわかっているのだから。義理の連鎖は断ち切ったほうがお互いのためだ。

顔を売ることの効用も、実はまったくないことがこの10年間でわかった。世間は薄情なものである。ちょっと前に見知った顔など、忘れてしまうのだ。それに期待をかけていては馬鹿を見る。所詮他人同士なのである。

そんな風に気持ちを決めたらだいぶ楽になった。今年はあれ、次はあれ、と不要になった関係の処理をしていくと視界がはっきりしてくる。部屋の断捨離をするのは無理だが、人間関係はできるのである。30代、40代のころはいかに無駄なものをぶら下げて生きていたことか。思い返すと気が遠くなる。

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