今抱えている仕事。レギュラー原稿×5、イレギュラー原稿×1(評論×1)。やらなければならないこと。の・ようなものの準備×1。ProjectMH×1。
古書汽水社のある通りをさらに北上し、横断歩道を渡って入ったあたりに眞浄寺がある。ここにあるのが、軍談講談師・美當一調の墓である。今回の熊本行にあたり、一調の墓参が目的の一つになっていた。
講談の中には軍談というくくりがあるので、軍事講談師というのは奇妙な言い回しに見える。通常の軍談とは三方ヶ原の合戦のような戦国時代以前の出来事を読むものだが、軍事講談が扱ったのは明治期以降の近代戦争である。戊辰戦争以降の出来事について語るものは大きな需要があった。ことに九州では、当事者が多かったことから西南戦争を題材にしたものが多く語られた時期があったようである。こうした流行に目をつけ、自身も軍談家として立ったのが美當一調、本名尾藤新也だ。
一調については簡単な評伝がいくつかあるが、細部で信頼性に欠けるものが多い。原資料に当たることができず、孫引きや伝聞で書かれているからで、その点で頼りになるのが安田宗生『国家と大衆芸能 軍事講談師美當一調の軌跡』(三弥井書店。2008年)である。同書によれば一調は1847(弘化4)年12月22日に熊本市観音坂で生まれた。生家は代々、藩主細川氏の雅楽師範を勤めており、一調も幼少期からそれを学んでいた。禄高は諸説あるが、安田の調べによれば150石、細川藩では下級武士の家柄である。維新後一調は西南戦争で西郷軍に身を投じて敗戦し、長崎で100日獄につながれる。その後、上に書いたように軍談に興味を持ち、自ら芸人になろうと考えた。当時の芸人には鑑札が必要だったが、士分の者にはそれが出ない。ために一調は武士を捨て、平民となって軍談を語り始めた。
一調は熊本市内の坪井と言われるあたりにずっと住まいを構えていた。同町内の武士階級の者が後ろ盾になっていたようで、やがて頭角を現し始める。きっかけは1863(明治26)年に政治家星亨が関与した相馬事件を題材としたことで、反響が大きかったために以降は際物、つまり最近の事件を好んで語るようになる。そして「日清戦争談」で最初の大当たりを引き当てる。綿密な取材を背景とした一調の軍談は、観衆の心を捉えたのである。
一調がリアルな戦争見聞記を語れたのは、陸軍内に情報提供者が、しかも佐官の者がいたためだと考えられる。このため一調は白浪物を読むことを止めるなど芸人としての自分を高く売ることを始める。後には軍談家というよりは軍事教育家、篤志家として名を馳せ、1928(昭和3)年に没するまで、地方軍部の中枢にも人脈を持った名士として遇されたのであった。
一調が芸能史で重要なのは、浪曲中興の祖である桃中軒雲右衛門と交流があるからである。雲右衛門は東京を喰い詰めて西に行き、宮崎滔天らの助けを得て九州で力を蓄えた後に中央へと戻った。彼の「赤穂義士伝」は格調高く、他に比べて一段低いものと見られていた浪花節は、これによって印象を刷新することになるのだ。雲右衛門が九州にいたのは一調が人気の絶頂に上りつつあった時期と重なる。当然多くのことを学んだだろう。一調は後援会から何枚も贈られるテーブル掛けを次々に取り替えて口演を行っていたという。これは浪花節の舞台スタイルに影響を与えた可能性がある。
私は以前から美當一調に深い関心を抱いていたのであるが、今回の熊本行で資料を集め、ますます強く興味を覚えることとなった。以降も研究を続けていきたい。(つづく)