杉江松恋不善閑居 自粛生活46日目「どんなものがいい書評だと思いますか」

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ニッポンの書評 (光文社新書)

5月23日。本に関するアンケート、ここらで聞いておかなければ。「みなさんの考えるいい書評とは」がお題だ。回答数は357である。

「あらすじ、内容紹介要約の的確さ」18.2%

「買うべきかどうか判断しやすい評言(点数表記含む)」15.1%

「その本の特徴についての評論的分析」35.6%

「評者の個性が出た感想、意見」31.1%

3番目がいちばん多かった。なるほどね。北上次郎さんの『書評稼業四十年』に書評家を三つに分けるくだりがあって、北上さんや霜月蒼氏が「煽り書評家」、川出正樹さんと私が「評論家」、日下三蔵氏が「書誌学者」になっていた。本が出てこないので記憶に頼って書いたので、語句は今一つ正確ではない。人選は間違ってないと思うが。これについては、ああ、北上さんはそういう風に思っているのだな、と感じた。この分類が自分に当てはまるのかどうかはちょっとよくわからない。私が「極力煽らない」ようにしているのは確かなのだけど。それはある作品を評したときにメールで直接作者の方からも指摘されたことがある。体温が低いほうが私は好きなのだ。

前回も挙げたが、豊崎由美さんの『ニッポンの書評』は名著なのでぜひ読んでもらいたいと思う。書評という文芸の特殊性、日本における事情などがきちんと整理されている。本が出てからだいぶ経つが、日本の書評は豊崎さんが指摘したところからあまり動いていないし、懸念事項についてもそんなによくはなっていないように思う。

その豊崎さんの持論で私も完全に同意するのが「あらすじ、要約も芸のうち」ということだ。これは本当にそうだと思う。下手な人が書くあらすじは読めたものではないからである。日本の国語教育は感想文なんてほっといて、まず本の中身を要約することを教えたほうがいいのではないか、と『ニッポンの書評』に書かれているが、まったく同意である。やってみたらいい。難しいんだから。そして豊崎さんの要約を試しに音読してみるといい。リズムがあって、頭にすらすら入ってくる。きちんとした要約は、内容を理解していない人にはできない。そして内容を理解していない人に本のおもしろさを伝えられるわけがないのである。

そんなわけで職業として書評を書いている者としては、実はいちばん重視するのは一番目だ。これができていて初めて「読んだ方がいい」とお薦めしたり、「この本は〇〇だ」と評論したり、「わしはこう思う」と主張したりすることができるのだと思う。職業としては、ですよ。別に他人に強制するわけではない。そしてもちろん、内容についてまったく要約をしていなくても、その本を読む気にさせる書評というのはあるのである。今ここに文例を引用できないのがまったくもって残念なのだが、中島らもさんが『夜の果てへの旅』か何かについて書いた文章がたしかそうだった。リズムと語彙の豊富さだけで成立していて、だけどあらすじなんかは一切わからない書評。でも読みたくなる。それで機能としては成立しているのである。ただし、評者が中島らもだったから成立しているので、まったくの無名評者だったらどうか、という問題は残る。

また、あらすじではないもので本の紹介をする、という技巧だってある。それで思い出すのがまた中島らもさんで『たまらん人々』に広告代理店の困った客として、どんな風にしたらいいかと何回聞いても「も、もっとぶわあっと」としか言ってくれない、というのがあった。わかるわかる。困る困る。あ、ぶわあっとじゃなくて、ぼやあっと、かも。でも書評の場合、ふわあっと、ないしはぼやあっとした印象の小説なら、その印象についてだけ紹介するというやり方はありなのである。

高橋弥生さん「自分と感性の合う方だと分かっていたら個性が出ている方がいいのですが、100%同じ感性はあり得ないので、内容紹介がしっかりしていることを重視します。その上で評者の個性が出ていると書評自体を楽しんで読めるので嬉しいです」

a nanny mouseさん「未訳の本を書評で判断することが多かったんですが、やはりどんな本なのかが的確に分かることが最重要ですね。ということで特徴、次に粗筋という感じでしょうか。評者の個性が出ているものは勿論合えば面白いですが、やはり本の紹介が第一義」「ただし評論的分析よりは紹介に徹してくれたほうがいいですけど。SF/ファンタジイに関しては一番頼りになったのはポール・ディ・フィリポですけど、ほんとにどういう本なのかがよく分かるし読むための視点の提示が的確なんですよ。逆に没個性的であるとも言えます」

あ、そうそう。没個性的に見えても紹介に徹した書評というのは私も好みなのだ。

話の都合上、ここで私が書評家として教科書にしている本を紹介する。本当はもっとあとでもったいぶって出したほうが効果的なのだが、そういう文脈になっちゃったから仕方ない。丸谷才一編『ロンドンで本を読む』だ。「鳩よ!」連載がまとまったもので、後に文庫に入っているが、そちらは抄録のはずなので、私は単行本版を手放さずに持っている。この序文で丸谷がイギリスの書評文化について説いている。その中で書評に求められる三つの重要なものを、内容紹介、評価の機能、文章の魅力としているのである。長くなるので、かいつまんで引用する。

[……]書評はまづ本の内容の紹介であった。づいふことがどんな具合に書いてあるかを上手に伝達し、それを読めば問題の新著を読まなくてもいちおう何とか社会に伍してゆけるのでなくちやならない。[……]紹介の次に大事なのは、評価といふ機能である。つまり、この本は読むに価するかどうか。それについての書評家の判断を、読者のほうでは、掲載紙誌の格式や傾向、書評家の信用度などを参照しながら、受入れたり受け入れなかつたりするわけだ。[……]そして書評家を花やかな存在にするのは、まづ文章の魅力のゆゑである。イーヴリン・ウォーの新聞雑誌への寄稿は、流暢で優雅で個性のある文体のせいで圧倒的な人気を博したと言はれるが、この三つの美質(流暢、優雅、個性)は、たとへウォーほどではなくても、一応の書評家ならばかならず備えているものだらう。[……]

おわかりかと思うが今回の設問は、この丸谷が挙げた三つの重要点を踏襲している。というわけで「読むべきか読まざるべきかの評価」が大事だという気持は私にもあるのである。ただし日本の書評では「読むことを薦めない」書評が編集者にも読者にも歓迎されない土壌があるため、とりあえず「どのくらい読むべきか」の尺度を評者独自のやり方で追求するということになっている。

北上さんの言う「煽り書評」はまさにそれだと個人的には思うが、別に「煽る」だけではなくていろいろな手を各人が追求すればいいのである。たとえば一時期「ミステリマガジン」でやっていた小森収さんの、どんな作品が来ても最後は「~という傑作である」で〆てしまう書評など、ものすごく皮肉が効いていておもしろかった。行間を読むというか、言わずとも察しろよ、というレトリックがあって。

ひとみさん「分かりやすい評言や点数です。特に信頼している評者に力強く推されると「そうおっしゃるなら騙されたと思って(失礼)買おうじゃありませんか」となります。評論的な分析は読後に目を通したいです」

ねえ、そうでしょう。買おうという気にさせる書評を一応私も心掛けてはいるつもりなのである。

と、ここまで書いておいて何なのだが、書評は独立した文芸であって、それのみで独立して読める文章であったほうがいい、とも私は思っている。イーヴリン・ウォーのように流暢で、優雅で、個性ある文体とは言わないけどもさ。書評についての物言いが揺れるのは、それがどの程度評論なのかという基準が人によってさまざまだからだ。

たとえばネタばらし問題について言えば、私は是か非かで言えば非で、たとえば編集者が、いやさ作者自身が肩をぽんぽんと叩いて、君さ、あの本はもうネタの一つや二つぐらいバラしたっていいんだからさ、とか言われても絶対にやるもんかと思っている。そんなことを言われたらたぶん頑なに内容については触れないように書くはずだ。これから読む人間の楽しみを奪わないのが書評、という信念があるからである。

ところが世の中には、書評を事前に読まないという人もいるのである。まったくの先入観なく読んで、ページを閉じてから他の人がどういう風に読んだかを照合してみたい、というわけである。そういう人にも書評は読んでもらいたい。そしてたとえばSFのようにテーマについての議論が読者に共有されているジャンルにおいては、この答え合わせのために書評を読む、なんだったら事前に知っておいて読みながらそれについて考えたい、というような読者が多い場合だってありうるのだ。そういう読者とミステリーファンとがネタばらし問題について語り合うとほぼ例外なく喧嘩になる。どうどう。いや、お互いに他人の飯櫃に手を突っ込むようなことはよしましょうぜ。そういう読者もいる、ということである。私は世の中にネタばらしを拒む読者が一定数いればそっちに合わせる派だ。

話がずれた。何を言いたいかというと、三番目の「評論的分析」の重要性だ。これを選んだ人の数からもわかるように、なんらかの解釈を書評に求める読者は多いのだと思う。丸谷の言うところの「文章の魅力」が、日本の場合はこれと次の作者の個性とに分かたれて認識されているのではないかと思う。

青の零号さん「書評をまさに「評論」ととらえるなら3を重視します。自分の読みたいテーマなのか、それをどのように扱っているかが購入時の判断材料になるので。まったく知らない作品なら1はある程度必要だし評者の個性が持ち味なら4もありですが重視はしません。書き手の色を付けない書評も大切ですから」

陶治さん「あらすじはあっさりめで、内容の時代背景やその舞台の地理的、社会的な特徴等の分析がメインに掲載されているとうれしいです。書評は読了前にさらっと読むのですが、これがあるだけで作品への理解度がガン上がりします。で、読了後に解説と共に書評をもう一度読むと復習になってさらに良きです」

春生カンナさん「選ぶのが難しい選択肢でした。要約の的確さも要りますが、主に評者の知性や感性、特に前者が手がかり。だから個性というより評論かな。必ずしもその本を買う訳でもなく書評自体が楽しみです。機会を得て買った時には、書評→本→再び書評に戻って書評家に唸る、と何度も楽しいのが醍醐味です」

そして最後の「評者の個性」である。本来であれば「文章の魅力」はこれに当てはまるのではないかと思うが、あえて分割してみた。前にも書いたように無個性で情報提供に徹した文章を私は嫌いではないし、自分の色を消そうとすることも多い。消しても消しても現れてくるものがあればそれが個性だろうということである。まあ、埋没する文章になってしまうことも多々あるのだが。この個性問題については、ちょっとまだ結論は出ていない。匙加減を工夫しながら、このあといろいろ試していきたいと思っている。百本書いたら、そのうち一本くらいはいい手触りのものができるだろう。できるといいな。

出淵平吉さん「4番目。贔屓の書評家による書評およびコラムおよび雑談を追いかけたい。ネタバレちゅうかネタバラシなしに読書欲の劣情をかき立ててくれる筆者に導かれたいです。1番目については編集者もっと頑張れといいたくなることが少なくありません」

並河逸成さん「直接的な内容には一切触れないが、それでいて読みたくて堪らなくなるような誘いのある文章だな。それを書評と呼ぶかどうかは別にして」

さんがつさん「内容は読んでからのお楽しみなので、あまりなくていいです。評者の作品をどれだけ楽しめたのかがお聞きしたいのです」

かえるちゃんさん「個人的な感覚なのですが、粗筋や要点より、その方の感じたなりの表現が現れている方が、本そのものに興味を持たされるような気がします。そうか、そう言うなら読んでみようか、と思うのは具体的よりもう少し印象に寄っている気がします」

雀坊。/飯盛大さん「書評をキッカケにして読む場合、やはり評者の個性がでているほうがキッカケになりやすい。逆に、趣味の合わない評者が大絶賛している本は敬遠するとかw 提灯記事みたいな書評より、しっかりと自分の意見が書かれている方が参考になります」

いただいたご意見はすべて引用したいくらいなのだが、まずはこのへんで。今回もお付き合いくださって、本当に感謝しております。精進しないと。

自粛生活46日目。

一日ずっと原稿を書いていた。珍しく気が散らなかったのでかなり生産できたが、これをずっと続けていると脳が限界容量を超えてしまうので、明日は少し量を控えるつもりである。せっぱつまった仕事Aとせっぱつまった仕事Bがあって、これは二つとも量も多い。これに加えてルーティンの仕事群Cがある。ABC、ABCと順繰りにこなしていければいい気持ちなのだが。沖田浩之だ、それでは。

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