杉江松恋不善閑居 単行本の企画書は三十代までに書いておくべきだ

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

某月某日

今抱えている仕事。レギュラー原稿×8。イレギュラー原稿×5(エッセイ、書評×3、解説)。

ProjectMTの準備。

やらなければならないこと。主催する会の準備×1。

書き下ろしを終わらせるためにしばらく他の原稿を止めていたので、業務復帰に時間がかかった一日だった。工場のラインを切り替えるようなものだから、すぐにはできないのですよ。それで思い出した、書き下ろしで本を出すことについてのもろもろ。

私は三十代までにノヴェライズの著書が何冊かあるのだけど、ありがたいことに『バトル・ロワイアル2鎮魂歌』で最初の本を出して以来、注文が途切れたことがなかった。ウィキペディアを見てみると、

『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』(2003年6月 太田出版)

『浪人街外伝』(2004年6月 宝島社文庫)

『同じ月を見ている』(2005年12月 小学館文庫)

『ひとりぎみ 太子堂純物語』(2006年4月 ヴィレッジブックスedge)

『口裂け女 Novel from the movie』(2007年3月 富士見書房)

となっている。便利だなウィキペディア。これ以外にも共著はあるので、会社を辞めて専業になった2003年から5年間は毎年何かのノヴェライズをしていたということである。これは大きい。お金の話で恐縮だが、50万円から100万円くらいの収入が雑誌仕事の他にあったということだから。年齢で言うと、35歳から40歳までの5年間である。この他にも共著の仕事をしているので、自分から売り込みをしなくても年に一冊くらいのペースで何か本は出せていたのである。

これは弊害もあった。四十代に入って、ノヴェライズの注文ががっと減った。ノヴェライズの市場が縮小したこともあるのだが、一番の理由は私の年齢だと思う。編集者から見て四十代は、ノヴェライズを頼むのには老け過ぎていたのだ。もうちょっと若い人に書かせたほうがいい、と敬遠されたのではないか。その判断は正しい。映像系に強いライターだってもっといるだろう。

それで四十代に入って、しばらく本が出ない時期が続いた。もちろん連載はしていたし、こども小学校でPTA会長になったこともあって、著書が出ていない状況について思いを巡らせることはなかった。そっちで結構時間を取られて、忙しかったのである。

だが、内心は不安であった。このまま著書が出せないライターで終わるかもしれない、とずっと思っていた。先細るぞ、と怖かった。北尾トロさんがルポルタージュ専門誌を始める、と聞いて「じゃあ、私も何かやらせてください」と飛んでいったのは、雑誌仕事だけでは食っていけなくなると思っていたからである。アライユキコさんがポータルサイトのライターを探していると聞けば、手を挙げて原稿を書かせてもらった。このころがいちばん進路について悩んでいた時期だと思う。自分の収入源を会社ごとに分けて、〇〇社に依存しすぎているから、この比率を下げるために別の媒体に営業をかけよう、なんて考えたりしていた。

四十代後半になって、桃月庵白酒さんの聞き書き連載をやり、それが本になった。これはツイッターでのつぶやきがきっかけだ。あるツイートに反応してくれた旧知の編集者が、じゃあそれをやりましょう、と言ってくれたのである。その連載が本になる際、単行本担当の編集者からPTAに関するレポ連載がおもしろかったのでまとめよう、と提案してくれて『ある日うっかりPTA』ができた。さらに、ひさしぶりに書いたノヴェライズの担当編集者から『絶滅危惧職、講談師を生きる』の企画をいただけた。これらのお仕事は全部線になっていて、ノヴェライズを三十代までにやっていなかったら『絶滅危惧職、講談師を生きる』の縁もなかった可能性がある。なので、それまでやってきたことは無駄ではなかったのである。時期で言うと、2016年から17年にかけてが転機だった。48歳から49歳にかけて、五十代の手前である。

四十代前半の不安感は今にして思えば危なかった。まさしく中年の危機である。今にして思えば、ノヴェライズの注文が切れなかった三十代に、単著の企画を出しておくべきだったのである。四十代に入ってから自分のやりたい本を単著で出すための準備にしておけばよかった。それに思いつかずに四十代の不安期に突入してしまったが、運よく切り抜けられた。でも、本当に運がよかっただけだ。吉田豪『サブカルスーパースター鬱列伝』じゃないのだけど、あそこでぐっと沈んでしまってもおかしくなかった。人の縁にも助けられた。たとえばツイッター文学賞などで豊崎由美さんに声をかけていただいたのは本当に励みになった。いちいち名前を挙げないが、いろいろな人が仕事を一緒にしよう、と言ってくださったので中年の危機を乗り越えられたのである。まだ乗り越えてないかもしれないけど。

なので、今いろいろと単著を出しているのは、本当なら十年前にやるべきだった仕事である。十年遅かった。しかし、十年前にはたとえば『浪曲は蘇る』は書けなかったはずで、今さら仕方ない。

他の人は私と同じ轍は踏まないように、三十代までに単著の企画をたくさん出しておこう。きっと梨のつぶてになるから徒労感も半端なくあると思うけど、体力ががくんと落ちてくる四十代から始めちゃ駄目なのである。そこから奮起するのは結構たいへんだ。

私はぶちぶち言っていても仕方ないので、五十にはなってしまったが、単著の企画をどんどん出して、どんどん書くよ。体力は十年分無くなってしまったけど、その分ライターとしての根性がついたし、企画を通せるノウハウも学んだ。だからあと二十年ぐらいは、このまま好きなことを書くライターでいたい。七十代でも自分にしかわからないような好きなことを好きに書けますように。

あ、あと、2014年、46歳のときから継続して東方二次創作の同人誌を出していたのも、書き下ろしの胆力を育ててくれたな。商業の単著はなくても、二次創作本は毎年出しているし、と胸を張っていられたし。ありがとう東方。東方はやはり心のごはんだ。

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存