杉江松恋不善閑居 相対主義という迷惑な寝言をまき散らさない

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普通のスープと辛いのと両方ある火鍋。これは両論併記でいいのである。

類推と置換によって自分の中におかしな考えが忍び込むのを防ぐという手法を、運よく思いつくことができた。そのことを昨日書いた。

運よく、と書いたのは本音以外の何でもなく、唐突に降ってきた考えだったからだ。つきつめていろいろ考えた結果ではなく、犬も当たれば棒に当たる式の思いつきなので、そこにたどりついたのは運というしかない。もしかすると、もっと気持ちの悪い思考法に至っていたかもしれないわけである。

大学で教鞭を執るかたわらで作家活動に入られた方が、雑談をしているときにこんなことを口にされた。

「学生と話していて驚いたんですが、『科学の分野ではいろいろな新しい発見があるので、そのうちに熱力学の法則も否定されるときがくるかもしれませんね』と言うんです。理系の学部に来ている学生だから本当にびっくりした。熱力学の法則が否定されるということはない。否定されないから法則と呼ばれるんですから」

「熱力学」のところはうろ覚えである。質量保存の法則だったかもしれない。何か、物理学に関する用語だったはずだ。なんの弾みでそんな話題になったかはもう覚えていないのだが、「理系の学生なのになんということを言うのか」というような調子でおっしゃられたので印象に残っている。

価値観の相対化、ということを考えるとき、このときの会話が頭をよぎる。そっちも正しいかもしれないが、違った観点に立てばこっちも正しいのかもしれない、と考えることは、たしかに公平なように見えるのだが、だがそこから延びている道は「熱力学の法則」を否定するような魔境へもつながっている。

それぞれの人間が異なる価値観を持っているのは当然だが、そのこととは別に変らない事実というものはある。昨日も書いたとおり「赤ん坊を殴る」というのはどのような倫理観においても間違いであり、非難されるべき行為だ。目が眩んでしまった相対主義者は、「赤ん坊がもしも自分よりも強かったらどうなのか」というようなありもしない仮定を持ちだしてくるかもしれない。それ藤子不二雄Aの『ウルトラB』だ。漫画だ。いい年をした大人が言うべきことではないのである。

文章で食っている人間として絶対にやってはいけないことの一つが、こうした迷妄をまき散らすことだと思っている。やったら単なる馬鹿である。意図的にやるのは厳禁であるが、そうなるかもしれない可能性があるとわかっているのに相対化の図式を持ちだしてくるのも駄目だ。いわゆる両論併記というやつである。

「〇〇だが●●という声もある」という形で責任を取らない書き方をする人間に、記名で原稿を書く資格はない。〇〇と●●、お前はどっちだと考えているんだ、という話である。それを決められないなら黙っているべきだ。そうすれば少なくとも混乱を招くことだけはないだろう。こうした逃げを打つニュースサイトは多く、見るたびにげんなりした思いになる。「もしかすると赤ん坊を殴るのは罪ではないのかもしれない」という言説をまき散らすことは、それだけで罪悪である。

少し脱線するが、「あなたはどう思うだろうか」としめくくる原稿もたいがいは読む価値のない糞である。おっと汚い言葉を使ってしまった。しかし無価値である。これも、判断を読者に委ねるという名目で言い切ることを回避しているからだ。言い切れないなら黙っていたほうがいい。偉そうに書いているが、私も駆け出しのころにこうした原稿を書いてしまっている可能性は皆無ではない。もしそういう原稿をつきつけられたら、二メートルぐらい飛びずさって土下座をすると思う。覚悟もせずに原稿を書くのは本当に無駄だし、場合によっては有害ですらある。

何度でも自分に言い聞かせる必要がある。寝言は寝て言え。寝言は寝て言え。完全防音で絶対外に漏れないようにして。(つづく)

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