杉江松恋不善閑居 自分にできることだけで食っていこうと考える

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小学五年生のときだったか、自由研究で八丈島流人史を調べた。そのときから八丈島はなんとなく気になっている場所で、これは名物の島寿司。

自分の中で疑わしいものは使わないで、これならなんとかなる、というものだけで勝負をしていく。

偉そうに書いているが、私はずっと自分がないままで生きていたし、無から無を作り出すようなことをして食べていた。

とは言うものの、自分にできることを見極めるという営業方針だけは、かなり早い時期に決めていたのである。付け焼刃は剥げやすいというけど、借り物の知識で体面を取り繕っても、意味はないとも思っていた。商品としてひとさまに提供するのであれば、自分の中から出てきたものだけにしないと。そういう方針で在庫の棚卸をして、使えるのとそうではないものを選り分けるのがフリーランスとしての第一段階になったのである。といっても、これは仕事をもらいながら、こっそり内々でやっていたのだけど。

小説でいえば、自分にわかるのは子供のころからずっと読んでいたミステリーだけ。わかるというのは歴史的な背景を理解していて、新しい概念が出てきてもその体系の中に位置づけて自分の言葉で説明できる、ということだ。たとえば2010年代になって、女性のティーンエイジャーを主人公にした作品が多く書かれるようになったのはなぜ、と聞かれたら、もともと犯罪小説には個人の立場から社会の諸相を切り取って見せる要素があったが、十代の女性に当事者意識を抱かせるような事件・事態が多くなったため、と答えられる。それが間違っているかどうかは別として、自分の言葉として。

それとは別に、ピカレスク・ロマンに対する関心が自分の中にはずっとあった。これは専門的とはいえないけど、フレデリック・モンテサー『悪者の文学』などを参考にしてちょっとは読み齧り、基本的な概念は押さえられていたので、都度努力をすればなんとかなる。

子供のころから落語は好きでずっと聴いていたし、知識もある。ただし、その時点では講談も浪曲もだめ。サブカルチャーとしての「お笑い」全般に詳しいわけではなくて、落語だけ。しかも、現在進行形で生み出されている新作の知識は心もとなくて、いわゆる古典のみ。

あとは、えーと、えーと、そんなものだ。

SFは科学的素養がなくてハードなものが理解できない。ジャンル小説ばかり読んでいたので純文学の知識は不足している。映画もかたよったものしか観ていない。音楽の知識もなし。ああ、大学で中世史や民俗学の本ばかり読んでいたので、それは少し素養としてあるか。しかし、1990年代以降の新しい学術的発見についてはもちろん追いつけていない。芸術的感覚とか、詩人の才能とかも、たぶんないなあ。

こんなものである。よく物書きとしての仕事を始める気になったと思うのだけど、やってしまったものは仕方ない。

乏しい知識だけを頼りにして、なんとか書き仕事を始めた。欠陥住宅みたいなもので、構造柱が不足している。もちろん、仕事をしながら知識の拡充には務めた。しかし、しょせんは泥縄式の知識である。

1990年代後半だったか、教養主義の是非のようなことが論議されるたびに、そこに参加はしなかったものの、そりゃ、自分の中に柱となるものはあるにこしたことがないよ、と小声で呟いていた。柱がなくて揺れる家なので、外圧に弱いわけである。誰かに頼りたくなるわけである。なのでたぶん、自分でも気づかないうちに他人の言を鵜呑みにしがちな、脆弱な自我を作ってしまっていたという次第である。

仕事を続けていくうちに、このままでなんとかやっていける、という気分になっていたのだが、前にも書いたように、ふとしたことから違和感を覚えてしまった。

あ、自分は空っぽだ。

そう思ったときに、書き仕事を始めたころの自信のなかった自分を思い出し、恥ずかしくなったのである。ああ、もしかすると外側を補強することだけに汲々として、いちばん大事な芯の部分を太くしてこなかったのではあるまいか。

外側だけ立派になっても、何かいいことはあるのか。その行き着く果ては。

もしかすると先生とか言われたいのか、私は。

威張りたいのか。

自分でもどうしていいのかわからなくなって、ちょっとだけ途方に暮れた。

途方に暮れつつも仕事はしなければならないので続けていたが、気分は上の空である。

ぽっかりと空いた部分を充填しないとなあ、と思いつつも、さらに数年を無駄に過ごす。ああ、愚かだ。(つづく)

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