芸人本書く派列伝returns vol.22 梶芽衣子『真実』・野末陳平『あの世に持っていくにはもったいない陳平ここだけの話』

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真実

あの世に持っていくにはもったいない 陳平 ここだけの話

最近は思うところがあって浪曲関連の文献ばかり読んでいる。ひさしぶりに浅草木馬亭通いも復活させ、ちょっとした浪花節ブームである。

もちろん新しい本も読んでいるのだがメルマ旬報用に題材を探していたら、オフィス北野界隈がたいへんなことになったり、〆切直前になって月亭可朝が亡くなったり、慌ただしいことになってしまった。それぞれ中途半端な形で取り上げるのも申し訳ないので、今回はややまとまりのない内容で読者にはご寛恕いただきたい。

初めの話題は梶芽衣子『真実』(文藝春秋)である。本に目を通していたら、故・古今亭志ん朝のいいエピソードが紹介されていたのを発見した。ドラマで志ん朝と夫婦役を演じた際に言葉を交わすようになり、梶はかねてからの疑問をぶつけてみたのである。寄席は多くの芸人が出演するわりに入場料が安い。それで本当に芸人は食えるのだろうか。それを問われた志ん朝は、「うん。だからここにいるんだよ」と答え、寄席の出演料、いわゆるワリの入った封筒を梶に渡してみせた。封筒の中には札はなく小銭ばかり。それがその日の志ん朝の出演料だったのだ。

「わかるだろ? ここで夫婦やらなきゃ食べていけないんだよ」と志ん朝は言ったそうだが、そのときの表情が目に浮かぶようである。梶とはそれがきっかけで距離が近くなり、会うたびにその日のワリをポイッと渡すのが恒例になったそうだ。梶のほうも「何だいお前さん、これっぽっちかい? どうやってお飯食うんだよ」などと冗談を飛ばすようになった。

『真実』は「オール讀物」連載のころから注目していた。梶が自身についてここまで率直に語ったのは珍しいだろう。日活の新人時代に生意気と評判をとったことの真相や、原作に惚れこんで自身で映画化を考えていた宮尾登美子『鬼龍院花子の生涯』をプロデューサーの日下部五朗に横取りされたことなど、本人にしかわからない事実が明らかにされている。日活の駆け出し時代に舛田利雄監督から目をかけられたきっかけのエピソードが、梶のイメージらしくて印象に残った。

(前略)ある時、撮影現場で「雅子(当時の梶の芸名は本名の太田雅子)、ちょっと来い」と監督に呼ばれたので行くと「あそこにいる兵隊を眼鏡が飛ぶほど殴れるか」と言うのです。「一発オーケーじゃないと芝居にならないけど、やれる自信あるか」と。

もちろん「やります」と答えて、一発で眼鏡を飛ばしました。(後略)

吉永小百合主演、『あゝひめゆりの塔』における一幕である。

『真実』からもう一つエピソードを。やはり新人時代から梶が世話になったのが渥美清だ。その渥美と後年、梶はフランスのオルリー空港で偶然に会っている。渥美は「『鬼平』、いいね。見てるよ」と梶の当たり役、密偵のおまさを褒めてくれた。

感激して「ありがとうございます!」と言うと、「僕、元気。じゃあ」と行ってしまわれました。先手を打って「僕、元気」っていうのがいいでしょう。「多くを聞くなよ」と言わんばかりの様子が粋でカッコよくて、渥美さんも本当にシャイな方なのです。

選り好みせずに仕事は引き受ける、という人もいれば自分が納得しなければどんなにいい役でも断るという俳優もいる。梶は後者であり、「女囚さそり」の続篇を断り続けた話や、その逆で池波正太郎の『鬼平犯科帳』に惚れこんで出演をフジテレビの上層部に直訴しに行った話など、行動に一本芯の通った部分があって興味深い。ところで、渥美清といえば、最近読んだ別の本にこんなエピソードが紹介されていた。

渥美清さんで思いだすのは、テレビではまだヒット作がなく、浅草の劇場でコメディアンだっただ印象しかない頃ですが、新宿コマ劇場で誰かの芝居を観劇中に、休憩で場内が明るくなると、突然、客席から立ち上がり、周囲にぐるりと四角い顔を見せ、自分の特徴を指でさして、

「これ、アツミキヨシ。分かる? この下駄がアツミキヨシよ」

と何回もアピールして客席をキョトンとさせていたシーンが笑えます。まだ無名に近いから、売りこみの仕方がまるでユニークなんですね、渥美流で。

これは本来ならば笑い話で済まないだろう。縁もゆかりもない他人が座長の芝居で、客席で第三者の芸人が自分の売りこみをやったというのだから。こうした破廉恥と紙一重の行動と、世間から身を隠すことに徹した後年の姿と、どちらも渥美清の素なのだろうと思う。それほどの両面性がなければ、人前に姿をさらし続ける芸人・役者は勤まらないのだ。

今紹介したのは御年86歳になる芸能界の長老・野末陳平『あの世に持っていくにはもったいない 陳平ここだけの話』(青春出版社)からの引用だ。放送作家がマルチタレント化した時期に、青島幸男、前田武彦らに続いて世に出た野末は、早稲田大学に籍を置いていたころから、軽演劇に惑溺していた。特に戦前のムーラン・ルージュ演劇に強い関心を持ち、日本で唯一のムーラン研究家を自認していた時期もあるという。結局、その趣味のために道を誤り、早稲田大学卒業後はストリップ小屋でコント作家になった。しかし食えずに職を転々とし、競艇の予想屋を手伝ってみたり、女子プロレスのレフェリーをやったりしたこともあるという。

後者は、小畑千代や佐倉輝美がいた団体だというから、パンと定子の猪狩兄妹が興したものだろう。本書掲載の写真では、キャバレーらしい場所で女子選手が試合をしているのがわかる。ここでエキサイトした選手にシャツを破られる役割なども演じていたというから、後年、新日本プロレスのコミッショナーとしてリングに上がり、ヒール・レスラーに脅されたりしていたのも決して付け焼刃ではなかったのだ。

その野末も芸人デビューしかけたことがある。マルチタレント仲間の野坂昭如に誘われ、漫才コンビを組むことになったのだ。その名もワセダ中退・落第。スポーツ新聞に野坂と野末が漫才師になると売りこんで記事にしてもらい、マスメディアの関係者に案内状を送って華々しくデビューが決まった。歌声喫茶で肩慣らしをしたあと、本格デビューを新宿松竹文化演芸場で飾る。今の新宿ピカデリーの地下である。ところが彼らの準備した「週刊誌漫才」なるネタはまったく受けなかった。しかも度胸をつけるために酒を飲んだ野坂は呂律がまわらなくなり、支離滅裂なことをアドリブでがなりたてるのみとなる。散々恥をかいて楽屋に引っ込んで司会者から「小学校の学芸会よりヒドイ」とけなされる。このとき袖で見ていて、「下手くそッ、笑いのコツ教えてやらぁ」と顔を出したのが、柳家小ゑんを名乗っていた二ツ目時代の立川談志だったという。後の盟友との、それが初対面であった。

『あの世に持っていくには~』はそんな野末の回想記である。放送作家としてはそれほど大きな存在にならなかった野末だが、長年ラジオパーソナリティをやって根強い人気があった。税金評論家としても著名で、今は常識となっている確定申告の医療費控除で所得税が戻って来る知識などは、野末が著書やラジオで広めたものだ。本書の版元である青春出版社から出した著作、『3時間だけ楽しむ本』『ヘンな本』は雑文集のはしりで、新書型式で肩の凝らないジョークやゴシップ集を出すという著述型式は、野末の発明ではないが商売として確立させた功労者の一人といっていい。『姓名判断』(カッパ・ブックス)というベストセラーもある。要するに、新書サイズに合わせた形で蘊蓄を披露する達人であった。つまり、私のようなフリーライターにとっては見習うべき大先輩なのである。

野末は四期二十四年にわたって参議院議員を務めてもいる(そういうところは別に見習いたくない)。一般的な功績としては、これが最も大きいか。税金党を名乗ってミニ政党時代に先鞭をつけた実績もあるが、本書の中では議員時代の青島幸男との軋轢も語られている。有名なエピソードとしては、参議院議員選挙に全国区で初めて立候補した際、五十位の最下位で談志が当選し、五十二位で野末は落選したことが挙げられる。記者会見で談志が「真打は最後に登場するものだ」と言ったあの選挙である。ところが野末の上で当選した候補が二人も急死し、繰り上げ当選の順番が回って来た。その野末に対して談志は「陳さん、やっぱり、やりやがったな」と藁人形に五寸釘を打つ真似をしてみせた。

本書の最終章は、その談志を中心に落語家との交遊録が語られている。巻末には談志が野末への遺言として書いた文章が掲載されているのだが、これがまた的確な人物評となっているので、ぜひお目通し願いたい。こんな具合である。

陳さんは世の中軽く見ていたようなフリして実は、見事に見通していた。“ここが弱い”“ここを攻めよう”“ここはやめとけ”“ここにはいい鉱脈がある”

談志はこれを称して「陳平はスキ間産業なり」と名言を吐いた。当人もこれを気に入ってくれているが、このスキ間狙いの陳さんの見事さは、昔々焼き芋もろくに食えなかったガキが、世の中の仕組みを覚えて、それらのスキ間に槍を入れた。体ごともぐり込んできた。勝手にズケズケと入ってきやがった。この見事さよ、したたかさよ。

やはり何を書いても談志の話になり、落語の話題になってしまう。他に木村一八『父・横山やすし伝説』(宝島社)もあって、これもおもしろかったのだが、また別の機会に。

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