小説の問題vol.22 「三島由紀夫と京極夏彦 昭和と平成の天神」徳岡孝夫『五衰の人』&京極夏彦『百鬼徒然袋 雨』

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「問題小説」に連載していた書評、「ブックステージ」は1年弱経過した時点で増ページとなり、新刊と文庫・新書化作品を一冊ずつ扱う形式に変わった。サブタイトルをつけるようになったのもこのときからだ。

それはいいのだが、増ページということを意識してか、この回は肩に力が入り過ぎてしまっている。恥ずかしいったらありゃしないので欠番にすることも考えた。しかし、若気の至りで書いた文章を隠すのも卑怯であろう。読みにくい文章で恐縮だが、よかったらご笑覧あれ。

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五衰の人 三島由紀夫私記 (文春文庫)

文庫版 百器徒然袋 雨 (講談社文庫)

当『ブックステージ』も今回から増ページとなりました。これからも読書の楽しみを追究していきたいと思いますので、どうぞよろしく。

さて、今月まずお薦めしたいのは徳岡孝夫『五衰の人』である。元本の刊行は九六年で、第十回新潮学芸賞を受賞している。著者の徳岡孝夫は毎日新聞社で長く記者として活躍してきた評論家だが、本書は「三島由紀夫私記」とある通り、徳岡の目から見た三島由紀夫を描く評伝である。ただ、徳岡と三島の人生が交わった期間は極めて短く、インタビュアーとして初めて出会ってから三島が没するまでの僅か三年半にすぎない。そのはかない交わりの中で三島は徳岡になにがしかの信をおいたのだろう。あの、一九七〇年一一月二五日、NHKの伊達宗克とともに檄文を託され、その最期を看取る役を依頼される。

一九七〇年一一月二五日。自衛隊市ヶ谷駐屯地に益田東部方面総監を訪問した三島由紀夫は、森田必勝ら「楯の会」有志四名とともに益田の身柄をおさえ、総監室を占拠。午後零時から本部玄関前に自衛隊員を集合させ、バルコニーからの演説を敢行。終了後切腹し、森田と古賀浩靖がその首を落とした。戦後史において最大級の衝撃を与える事件でありながら、三島の行動の意味はこれまでうまく咀嚼されずにきたように思われる。昭和という時代の中で、三島事件のみが理解の範疇を超えた不可解な事件として残っている。

私は「楯の会」が結成された一九六八年の生まれである。もう少し上の世代の方ならご存じのとおり、三島由紀夫と「楯の会」について語ることをはばかられる空気というものが当時から存在していた。その雰囲気は昭和が終わるまでついに解消されることはなかったのである。したがって私は本書を、自分の中でまだ終わっていない昭和を終わらせるための本として読んだ。

徳岡孝夫には日本推理作家協会賞を受賞した『横浜・山手の出来事』という著作があるが、元記者という経験からくる視点の確からしさ、客観的観察力という基本能力の上に、真実を見抜く洞察力を備えた人物である。これは「探偵」の視点と言ってもいいだろう。それが文学的素養に裏付けられているのが心強く、本書にも思わず息を呑むような推察が散見される。

三島が自刃前夜に行動をともにする「楯の会」メンバーに書いた遺書がある。周知のとおり、最後の著作である『豊曉の海』四部作の最終巻『天人五衰』は、自刃の前夜に脱稿されたのだが、徳岡は遺書が書かれたのを、この脱稿後のことと断定する。なぜならば、徳岡によればこの遺書は「文体がもはや作家のものではないからである」。こういった文学的洞察を交えて描かれることにより、本書は三島由紀夫の評伝であるとともに、三島論としても読める内容になっている。

ところで、「五衰」というのは『和漢朗詠集』にある「生ある者は必ず滅す/釈尊いまだ栴檀の煙を免れたまはず/楽しみ尽きて哀しみ来る/天人もなほ五衰の日に逢へり」の一句から採られた言葉である。不老長寿を誇る天人もまた、いつか死の兆候である五衰を迎えるという。徳岡が見た三島由紀夫は、まさにその五衰のさなかであったのだろう。

徳岡は三島が死によって意図したものを、陽明学で言うところの「帰太虚」、すなわち行動の貫徹によって万物の根源である「太虚」に帰らんとする意志であったと結論づける。「帰太虚」とは、何かを得るために行動するのではなく、行動そのものの爆発によって何事かをなそうとする強烈な意志である。すなわち三島は「無」から生まれた自分を「無」に帰す、そのためだけに存在して死滅したのだ。打算的な自己と比べてみるとき、三島の意志の壮大さを改めて痛感せざるをえない。その大きさに触れたとき、初めて私の中でも何かが終焉し、昭和は三島とともに「無」に帰ったのである。

さて、三島由紀夫のことを考えるとき、いつも頭に浮かぶのが京極夏彦だ。一見なんの共通項もなく、比較の対象としただけでそれぞれのファンに叱られそうだが、三島が常に時代の先を読んでいたのと同様の先見性を京極にも見出してしまうのである。「先を見る」と言うよりは、むしろ「同時代を無視する」と言った方が正しいか。下界で俗人たちが自家撞着の堂々巡りした議論を重ねている間にさっさと次に行ってしまう天人のような、そういうイメージを私は両者に抱いている。それは京極夏彦の産んだ京極堂・中禅寺秋彦の肖像とも重なるものである。

見当違いを承知で書いてしまうが、京極小説で京極堂と人気を二分するキャラクター榎木津礼二郎は三島を意識して描かれた人物なのではないだろうか。

榎木津は筋骨隆々たる偉丈夫であり、眉目秀麗たる麗人であるという外見上の共通点もさることながら、財閥の御曹司として生まれながら「薔薇十字探偵社」なる探偵事務所を開設してしまう気まぐれな性格や、一度口を開くや必ず周囲の人間を困惑させずにはいられないというキッチュ志向もそっくりだ(三島が徳岡に再会した時に発した『やぁ、徳岡さん。あなたとはいつも太陽の下で会う!』という台詞の唐突さ加減、非日常的な雰囲気はまさに榎木津のものである)。また三島は胎児の時の記憶を持ち続けていたというが、榎木津もまた「人には見えないものが見える」という特殊能力の持ち主なのである。彼はその能力ゆえに捜査や推理などという下賤な作業をすることなく物事の真相を見抜くことができる。そんなバカな人間がいるわけがない、と怒られるかもしれないが、そんな人物が探偵の役割を果たしたらどうなるか、というのが、今月二冊めのお薦め本、探偵小説『百器徒然袋-雨』なのである。

本書はいつもの京極堂を中心に据えたシリーズの番外篇である。三つのストーリーが収められた中編集であるが、「僕」という語り手(なぜかいつも本名で呼ばれず、適当な仮名をつけられるという損な役回り)を得て、榎木津の傍若無人な活躍が描かれる。それぞれ、上流階級のドラ息子に報復する話であったり、国際外交の難問を解決する話であったり、ある寺院の秘密を暴く話であったりと、事件の性格は一様ではないのだが、最後に榎木津が起こす騒動は同じである。残念ながら、さすがに自衛隊に乗り込んだりはしないが。

この根拠のわからない無敵さはなんなのだろう。榎木津も抱えるものが「無」であるがゆえに、強い人間だということなのだろうか。私のように、さして失うものもないのに、保身の心配ばかりしている小人には理解の及ばない強さである。

彼の活躍ぶりを、コミック世代の読者はマンガ特有の予定調和的展開を楽しめるだろうし、もっと年配の世代であれば忍法小説やその源流となった立川文庫のような荒唐無稽な活劇として懐かしむことができる。京極夏彦の小説というと、その莫大な情報量のみが取り沙汰されることも多いが、その土台には見事なストーリーテリングの能力があることを実感させられる。世代を超えてお薦めできる小説と言えよう。私は、自分も似たところのある俗物が一斉に罵倒される痛快な小説として楽しく読んだ。

ところで、当欄では今後毎月一冊の新刊と一冊の再刊を採り上げていくことにしようと思う。再刊書というのはあまり顧みられる機会もないが、書籍流通構造の中で単に消費されて終りとなるにはもったいない本がたくさんある。当欄をその救済措置としたいのである。ミステリー作家山口雅也の新刊『ミステリーDISCを聴こう』(メディアファクトリー)は、ミステリーと音楽の双方に造詣の深い山口ならではのエッセイ集であるが、娯楽小説とポップスという大量消費の権化とも言うべきジャンルを有機的に結合させ、その背景を掘る=Digすることによって、まったく新しい価値観、視点を導くことに成功している好著である。Digすればするほど、世界の底が知れないことが痛感されてくるという山口の意見に私も賛成だ。及ばずながら、世界の底に何があるのか見てみたいと思う。読書以外に何の取り柄も持たない筆者だが、せいぜい力を入れて掘ってみよう。

(初出:「問題小説」2000年1月号)

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