芸人本書く派列伝returns vol.19 小松政夫『のぼせもんやけん』『目立たず隠れずそおーっとやって20年』ほか

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のぼせもんやけん―昭和三〇年代横浜 セールスマン時代のこと。

(承前)

芸人のおもしろいエピソードを寄席のほうでは「ひとつばなし」と言う。楽屋話、ネタ、などいろいろな言い方はあるだろうが、要するに芸人が他の芸人を笑わせるために話すようなもののことである。小松政夫には数々のフレーズがあるが、それらの出所も楽屋のおしゃべりから生まれたものが多いようだ。前回紹介した『昭和と師弟愛』(KADOKAWA)に、彼が「シャボン玉ホリデー」で役をもらうきっかけとなった「知らないっ」のフレーズについてのくだりがある。

これはいわゆるカマ言葉で、侠客や豪傑が見得を切って登場した後に何かのはずみで失敗し、半泣きになってこの台詞を連呼するというショート・コントで小松は初めてエキストラではない役をもらったのだった。その部分の台本を書いたのは谷啓である。楽屋で小松が披露した話を拾い上げ、彼に当て書きするような形で役を与えたのだ。

植木等のボーヤ兼運転手として渡辺プロダクションに入る前の小松は、横浜トヨペットで営業をやっていた。「知らないっ」は当時の課長の言葉だという。仕事で失敗した小松をその課長が叱り飛ばしていた。ずいぶん強面の人だったらしいのだが、声があまりに大きかったらしく、居合わせた部長に「うるさい」と一喝された。すると課長は小松に向かい、「みろ、お前のせいで怒られたじゃないか。もう、知らないっ、知らないっ、知らないっ」と拗ねまくった。そのさまがあまりに可笑しくて覚えていたので、デフォルメして楽屋で出番待ちのクレイジーキャッツ・メンバーに話したのである。このエピソードは、小松の著書にはだいたい出てくる。完成された「ひとつばなし」なのだ。

ちょうどいい機会なので、小松政夫の自伝的著書を列記してみよう。以下、刊行順である。

A:『目立たず隠れずそおーっとやって20年』1985年。婦人生活社。

B:『おもしろい人に会ったよ』1993年。コスモの本。

C:『のぼせもんやけん 昭和三〇年代横浜~セールスマン時代のこと』1996年。竹書房。

D:『のぼせもんやけん2 植木等の付き人時代のこと』2007年。竹書房。

E:『時代とフザケた男 エノケンからAKB48までを笑わせ続ける喜劇人』2017年。扶桑社。

F:『昭和と師弟愛 植木等と歩いた43年』2017年。KADOKAWA。

Aは小松の芸能生活20周年を記念して出された本で、師匠である植木等が「まえがきにかえて」を寄稿している。装丁は和田誠で本文の交遊録にも名前が出てくる。和田を小松に紹介したのは面白グループ時代の赤塚不二夫である。本書はB以下の底本になっている。「小松政夫ひとつばなし」はすでにここで完成を見ており、後はその繰り返しといってもいい。

Bは「知らないっ」以外のフレーズ、「おせーて、おせーて」や「ナガーイ目で見てください」などの由来について書いたエッセイ集だ。「ワリーネ・ディートリッヒ」や「いてーな」など、ここにしか書かれてないエピソードもある。

C・Dは間を置いて刊行されたが、下積み時代を脚色して書いた自伝的小説である。営業社員時代のエピソードだけで1冊にまとまったものはCしかなく、横浜トヨペットの社員たちについても、ブル部長、リスザル課長、アリクイ係長など、ハンナ・バーベラのアニメめいたキャラクターを与えられた上でそれぞれのエピソードが詳しく書かれている。ローンを払わないヤクザの車を引き上げたら逆鱗に触れて嫌がらせをされたという話などはここにしか出てこず、フィクションの可能性もある。Dの特徴は、植木等の付き人として同期だった「島田君」(現況は不明)、親交のあった東宝ニューフェイス・久野征四郎との関係が強調されていることで、青春小説の要素が強い。

Eについては後述したい。先行する小松本との重複が少なく、新事実が多く含まれる一冊だ。

FはDと逆に「親父」こと植木等との関係に焦点が当てられた内容である。小松政夫が半生を語る本であると同時に、植木等の偉大さを元付き人の視点から書いたという性格がある。他の本には登場する「島田君」について本書で触れられていないのは、植木と小松の関係のみに読者の関心を集めるための配慮だろう。植木等及びクレイジーキャッツの功績を讃えるという狙いは小松のすべての本に共通してあるが、特にその面が強い本だ。

Aの巻末に付された年表を元に小松政夫の年譜を簡単に整理してみる。

小松政夫こと松崎雅臣は1942年1月10日、博多生まれである。この博多生まれというのが小松の自意識の中では大きく、たとえば福岡県出身ではあるが博多生まれではないタモリを「博多っ子ではなくて福岡っ子」と区別するのは、二人の間での持ちネタになっている。また『博多っ子純情』で人気を博した長谷川法世など、同じ博多出身者との先輩・後輩の別は小松にとって人間関係の軸である。師である植木は小松が結婚した際、妻となる女性に「明治生まれのクソ親父のような男だが、悪い男じゃない。よろしく頼むよ」ととりなしたという。TVドラマのタイトルになった「のぼせもん」とは博多っ子の中でも「お祭り男」「調子のいい男」といった人種を指すらしいが、そうした外面の中には、古風な気質が隠されているのである。

小松をさらに頑固にしたような父が中学のときに亡くなり、それまで裕福だった松崎家は一転貧困のどん底に落ちる。そこから高校を卒業し、会社員勤めをしていた兄を頼って上京してくるまでが揺籃期である。地元で演芸会などを開いて人前に出る快感をすでに知っていた小松は、東京で芸能人として一旗揚げる野望を持っていた。しかし養成所の試験に必要な金が払えず、やむなく役者の道を諦める。印鑑屋や花屋、洋菓子店などを転々として東京トヨペットに入るのが1962年、高度成長期の営業らしくモーレツに働き、大いに業績を上げたらしい。ここまでの話はC、あるいはAに詳しい。小松政夫の雌伏期である。

雑誌に植木等の付き人(ボーヤ)募集の広告があったのを見て応募し、600人の中から1人採用になったのが1964年。ここからが修業時代となる。そして1968年に付き人を卒業して渡辺プロと契約、バラエティ芸人時代の始まりである。1969年には元てんぷくトリオの三波伸介・伊東四朗との出会いがあり、それが1972年に始まった「お笑いオンステージ」への出演につながっていく。次第に伊東四朗とのコンビは増えていき、1977年の「みごろ!たべごろ!笑いごろ」における「電線音頭」、1975年の「笑って!笑って‼60分」での「小松の親分さん」コントが生まれることになる。

1970年代後半以降の小松は誰もが知るコント芸の人だ。それと並行してドラマ「前略おふくろ様」、映画「居酒屋兆治」など役者としての仕事も行い、1983年には初めて目黒鹿鳴館でその後も続けることになる「ひとり芝居」を上演する。喜劇人・小松政夫の誕生である。

小松が植木の付き人を務めたのがどんな時期だったかは確認しておく必要がある。

TV「シャボン玉ホリデー」の放送開始が1961年、すでに1959年から「おとなの漫画」が始まっていたが、この番組でハナ肇とクレイジーキャッツの人気は不動のものとなる。同年に「スーダラ節/こりゃシャクだった」のシングルが発売、翌年には植木等の実質的な初主演映画「ニッポン無責任時代」が公開される。以降極端なハイペースでクレイジー映画は作られ続けるが、小松が付き人となった1964年には品質の低下は著しいものがあった。にもかかわらず人気が凋落しなかったのは、テレビの視聴者に支えられていたからだろう。ハナ肇とクレイジーキャッツは舞台ではなくテレビを主戦場とする芸人のはしりとなった。ジャズマン出身であり、生の舞台を大事にする喜劇人であった本人たちの意志とは別のところで、テレビという巨大なメディアが彼らを必要とし、動かしていたのである。

付き人・松崎雅臣がその他大勢のボーヤの域を脱する契機となったのは上に書いたとおり「シャボン玉ホリデー」だった。しかし小松は、どの著書にも「知らないっ」のエピソードと並んでもう一つ、淀川長治の物真似を始めたときのことを書いている。1969年5月に大阪・梅田コマ劇場において、クレイジーの座長公演「幕末ゲバフェバ風雲録」が行われる。第1部が芝居、第2部がクレイジーによる大音楽会である。このとき第1部と第2部の間に幕を下ろすことをハナ肇がよしとせず、小松につなぎ役を命じた。そこで大観衆を相手に苦闘した結果、淀川長治の真似が生まれたのである。

小松の成功体験の中にこの2つがあるように思われる。1つは、TVバラエティのコントである。当時のバラエティにはスタッフの笑い声など入らず、静寂の中で芸人は芝居を求められた。小松にとっては目上の芸人たちと絡んでいかに自分を認めさせるか、あるいは植木を含む先輩方の邪魔にならないようにしながらどうやって存在感を出せるか、ということが重要な課題だったのだ。これが劇場の舞台だと、同業の芸人と同時に観衆を相手にしなければならない。観衆の呼吸を読むこと、失敗をしてもめげずに次の挑戦をすること。板の上の経験に鍛えられて、小松は芸人として独り立ちしていく。

1970年代の狂い咲きが示すように、小松にとっては伊東四朗との出会いは大きなものだった。正式なコンビではないが、伊東・小松のペアで出演することを期待されるようになった。そして伊東とは呼吸が合い、芸人同士の切磋琢磨が可能だったのである。

本番直前の打ち合わせも綿密に行いました。伊東さんとふたり、トイレに行ったふりをして、カメラ割の確認をしたこともあります。伊東さんが「ここで俺の顔にカメラがぐっと寄る。ここでニンドスハッカッカ、ヒジリキホッキョッキョを入れよう」とか、細かい打ち合わせをする。(F)

小松の「ひとつばなし」は持ち芸として完成していて、ブレが少ない。揺籃期であれば厳格だった父の思い出が、雌伏期は自身の芸人としての基礎がモーレツ社員時代にいかに培われたのかという自己分析が、そして修業時代には師匠である植木等及びクレイジーキャッツの面々の恩寵、師弟関係という古風な芸人のシステムの素晴らしさが、それぞれ際立つように話されるのである。これまでの本に共通項が多く、Aを底本とする形でそれに脚色をしたり(D)、「親父」植木等との関係のみを抽出したり(F)する語りになっているのはそのためだ。自身が脚光を浴びたのは1970年代のバラエティ時代以降なのだが、そこに至るまでの準備期間、芸人としての土台を与えてくれた「シャボン玉ホリデー」以前のことを語ることが、小松が自分について語るときの主題なのだといってもいい。

それに次ぐものとして語られるのが、理想の相棒である伊東四朗との関係だ。A、E、Fの中では伊東に関する言及も多く、彼と巡り合ったことが自身の出世につながったことが意識されていることがわかる。特にEに関しては伊東四朗と出会った後を語る本としても過言ではなく、現在の読者がよく知る1970年代以降の小松政夫像が中心に描かれている。この本の構成には知人が関わっているようなので仲間褒めになってしまうが、それ以外の小松政夫本との重複を避ける意図でエピソードを採録したのだとしたら、その戦略は間違いなく正しい。

Aのみに収録されていて他の本にないのが、三波伸介に関するエピソードである。三波は1980年の漫才ブーム以前は間違いなくテレビ界の首位に立っていた喜劇人だった。テレビにおける代表作は軽演劇をNHKのゴールデン帯で放映した「お笑いオンステージ」だが、初期には伊東四朗も同番組には準レギュラーで出演していた。1985年刊のAの中で、小松はこう書いている。

いま、見直さなきゃいけないのは『お笑いオンステージ』だ。健康な笑いというのを、ぼくは今後、ひとつのテーマにするつもりだ。

ぼくらが育ってきた“お笑い”やアチャラカの原点が、そこにあった。新派、歌舞伎、講談――そうしたものを形にのっとってお笑いにしていく。オリジナルを知らないで、ぼくらは、そうしたことを“お笑い”で知った。それがカルチャーだった。(中略)

キャラクターだけの人間が出て、その場、その場で笑わせるのではなく、その場その場を少しずつこさえていって、我慢して「ここは俺の持ち場」「あそこはあの人」とやっていけば総合の物ができる。『お笑いオンステージ』はそうやってコメディを作っていった。

小松与太八左衛門や小松の親分さんなどのキャラクターの印象があるために誤解されることも多いが、小松政夫は自身のキャラクターに固執する芸人ではない。現場の要請があるためにそうした役を演じるが、基本は与えられた役になりきることを良しとするのである。1983年に「ひとり芝居」という場を持ったことで、そうした自身の方向性を確認する機会を得た。Aによればその原点は赤塚不二夫らとの面白グループ内でタモリや団しん也などと見せていた宴会芸で、それを客の前でやってはどうかという提案が放送作家の高平哲郎から出た。それが、アパートに酔っ払って帰って来た会社員の生態を演じるという最初の「四畳半物語」につながったのである。ここで中小規模の観客を相手取った舞台を行ったことが、結果的には小松政夫をテレビで消費されるタレントに留まらせなかった。マスメディアにおける認識はあくまでバラエティ芸人だったが、この「ひとり芝居」以降の小松は喜劇人となる道を模索するようになったのではないか。

Aは「ひとり芝居」が走り出してから間もない時期に書かれたもので、まだ小松自身がその先の展望を持っていない。「いまさら小松が、あんなにマイナーなことでと、よく言われる。が、それは違う」「全国津々浦々でやりたいと思っても、反面マイナーな役者にはなりたくないという気持ちがある。藤山寛美さんだ、渥美清さんだってものにもっていきたい」などと吐露しているのがその証拠だ。この時点ではまだ藤山寛美も渥美清も存命だが、彼らが体現したものが一代限りで終わり、その跡が空位になるということは小松の預かり知らないことである。小松は「ひとり芝居」につながる道を模索し続け、今日に至っている。

小松本を比較しながら読んで気づいたのは、芸人が著書で表現したいことは、必ずしも彼のすべてではないということだった。演技という本来の手段を持っている芸人は、文章という形をとらずに表現できるものについてはそちらを使う。それが昔気質の芸人のありようであり、小松は自ら古風であることを良しとする人である。

小松政夫は植木等というバンドマン由来の芸人と三波伸介・伊東四朗という軽演劇出身の芸人の交点にいる。ザ・ドリフターズ、萩本欽一ら他の1970年代を接見した芸人と比較しても、その点は稀有な存在だと思う。小松がテレビで売れたのは伊東らと組んだことが主な要因なのだが、植木他のクレイジーキャッツ・メンバーから受けた影響、感謝の念をずっと持ち続けてきた。それを形にするために、現時点では文章が妥当な手段だということなのだろう。私としてはぜひ伊東四朗以降、ひとり芝居以降の小松についてまとまったものが読みたいのだが(だからこそEの刊行がありがたかった)、それが形になるのはだいぶ後のことになりそうである。文章で読めるのは、あくまで彼の「ひとつばなし」にすぎない。

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