芸人本書く列伝classic vol.21 立川志らく『落語名人芸「ネタ」の裏側』

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落語名人芸 「ネタ」 の裏側 秘蔵資料 三越落語会 十一名人の「感どころ」

この連載は毎回博士から指示をいただいて原稿を書くというスタイルなのだけど、博士が漫才モードで指示を出している余裕がなさそうだったので、こちらから選ばせていただきました。今後はそういうことも増えるかもしれません(注:「芸人本書く列伝classic vol.19」で書いたように、このあたりから選書を任されるようになった)。

というわけで今回は、ちょっと一般受けはしなさそうな本を。いや、いつもだってあまり一般向きではない本ばかり扱っているわけですが、今回は飛び切りだ。

立川志らく『落語名人芸「ネタ」の裏側』(講談社)がその本である。

作家・久保田万太郎の提唱により、1953年4月に日本橋三越本店内の三越劇場で「三越落語会」が始まった。いわゆるホール落語会の先駆けで、2013年9月現在で575回を数える老舗である。そのプログラムには「感どころ」というコラムがあり、演者たちが寄稿をしていた。本書は1960年代の原稿から内容を選りすぐって誌上で再現したものに、志らくが解説を加えた構成になっている。

採りあげられているのは1960年代の「感どころ」で、志ん生、文楽、圓生、金馬、三木助、可楽、正蔵、小さん、馬生と錚々たる面子が並んでいる。さらには、〈星の王子様〉という奇天烈なキャッチフレーズで売り出していたころの若き日の先代・三遊亭円楽、そして故・立川談志の二つ目時代の文章も収録されている(円楽は真打時代のものも)。全生・小ゑんとそれぞれ名乗っていたころを窺わせる、貴重な資料である。

いちばんためになる文章を書いているのは、三代目(先代)・三遊亭金馬だ。

岡本綺堂氏の本に、佃祭の種本は「中国飛雲渡」で、この渡しは今も温州瑞安にありとかいてあります。永代橋落橋が文化四年、厩の渡し転覆が天保九年、秋葉祭り、そんなことが原本になったものと思います。三十九年に新佃橋が出来ます。(「佃祭」)

と、「佃祭」の起源をさりげなく明かしたかと思えば、「居酒屋」については「鶴本志ん生師が志るこ屋の小女の通し声を居酒屋に利用したまでです」などと書いてある。「鶴本の志ん生」は人気のあった美濃部孝蔵の志ん生の先代だ(四代目)。「居酒屋」は金馬の十八番の一つで、居酒屋の小僧が品書きを読み上げ、奥に注文を通すときの声が甲高く、おもしろく演じられる。それが実は汁粉屋で働く少女の声を採り入れたものだった、という発見なのだ。

このように古典落語好きが本書を読めば随所に発見がある、とまではいかないのは、落語家によっては非常に感性的な書き方をしているからだ(特に志ん生)。だから本人の文章では何を言っているのかわからないこともあるが、そこを志らくが補っているわけである。この解説があるからこそ、どの演者、どの噺についても理解を深めながら読むことができる。

たとえば八代目桂文楽は持ちネタが二十も無かったのではないか、と言われることもある人で、その代わり一席一席を珠玉の如くに磨き上げた。その十八番の一つに「愛宕山」がある。文楽の「感どころ」はあらすじの紹介に徹しているようでさほど感心すべきところもないように思えるのだが、志らくは言葉を足すようにして解説している。この噺には、お大尽が谷底に放った小判を幇間が決死の覚悟で拾いにいく箇所がある。山上のお大尽と谷底の幇間が会話を交わす場面について――。

(前略)この距離感にどれだけ文楽師匠はこだわったか。徹底的にディティールに凝る師匠だから実はとても難しかったのではないかと思います。われわれは別に上向いて、下向いてだけでそれ程の距離感がなくてもだいたいお客が想像するだろうとしか考えないが、でも文楽師匠はお客の想像だけに任せず、あまり下だと落ちて死んでしまうから死なない程度の深さ、会話が届くくらいの距離感を測ってと、この描写に相当悩んだはずです。(後略)

また六代目三遊亭圓生の「品川心中」の「感どころ」では、圓生が「バクチ場で梁の上に上っている(注:賭場に貸本屋の金蔵が突然現れたことに驚き、集まった若い者が散り散りになって逃げる場面がある)。天井の無い家、江戸時代の生活がうかがわれます」と書いているのを受けて、志らくはこう述べる。

 (前略)われわれは普段、あまり考えずにこの噺を演っていますが、家の中でぶら下がる場面でいったいどこにぶら下がっていたんだろう。考えてみれば、この時代、長屋なんか天井がなく梁だけだった。映画なんかでは照明が映ってしまうからなかなか天井までは映さないが、江戸時代の博打場や貧乏人の家には天井がなかったということ、黒澤明の「どん底」などを観ても確かにないです。

こうした具合に一人話芸の落語で、演者がいかに空間を感じさせるように仕向けているか、目に見えない舞台装置をどのように現前させているか、といった工夫がつまびらかにされているのである。解説者がプロの演者であるという点によって、本書は得がたい教科書になっている。フランソワ・トリュフォーがアルフレッド・ヒッチコックにインタビューした『定本 映画術』(晶文社)にこの本を比したら褒めすぎですかね。褒めすぎか。いや、そんなこともないんじゃないのかな。

おもしろいのはべた褒めではなく、演者や演目によってはちゃんと否定的なことも書いてある点だ。たとえば五代目柳家小さんの項では、「船徳」を採りあげた個所で「小さん師匠は、若旦那の色気というのは、あまり得意ではないと思います」「小さん師匠はドタバタを演ると面白いんです」ときちんと書いてある。

余談ながらこれは優しい言い方で、先代の小さんについては若旦那だけではなく、女性全般も上手くないという評価が多かった。「あさげ」の人だしね。志らくの師匠の談志はご存じのとおり小さんの弟子だったが、面と向かって「女が下手だ。あまり下手だから客が困って笑ってるじゃないか」と暴言を吐いたこともあるそうである。

五代目古今亭志ん生の項でも「志ん生師匠の落語を滑稽噺と人情噺とに分けると、滑稽噺は抜群に面白いですが、人情噺はそれほど面白くない。(中略)人情噺になると昔ながらの教えでちゃんと演らなければならないと思うのか、自分のスタイルを通常の人情噺に合わせて変えている気がします。志ん生師匠が感性で人情噺を演ったならば、抜群に面白くなるはずが、つまらなくなってしまう。圓生師匠の人情噺がいいのは、滑稽噺と同じトーンで演っているから、だから落語なんです」とある。

単に好き嫌いで良し悪しを決めているのではなく、そこに評者なりの基準があり、分析が伴っているのである。この「志ん生の人情噺はつまらない」ということは談志も言っていたが、「スタイルを変えているからだ」という分析は、志らく独自のものではないかという気がする。師匠の基準を受け継いだ上に、オリジナルの視点を加えているわけである。

本書を読んでおもしろいと感じた人は、ぜひ志らくの師匠である談志の芸談の著書も併せて目を通してもらいたい。いくつかある中で手に取りやすいのは、評論家・福田和也を聞き役にして語った『談志 名跡問答』(扶桑社)である。本書に登場する昭和の名跡についてもほぼ言及されており(先代の円楽はなくて、代わりに先代の鈴々舎馬風が入っている。三越落語会には漫談の馬風は出られなかっただろうから当然だが)、談志の率直な意見を読むことができる。

たとえば八代目三笑亭可楽。八代目の特徴は、どんな噺でも二十分かからずにまとめてしまうところで、談志が三十分以上演じる「らくだ」でもそのくらいでまとめて、サゲまでやってしまっている。それを談志は「難しいとこやらないから」だ、と一刀両断にする。

談志 本来、落語的リアリズムから言えば、(「禁酒番屋」の)火の番小屋で飲んでいる奴が四人いたとして、それぞれに酒の量と癖が違うはずでしょう。(中略)可楽は、その過程を演じないで、「ここでぐっと飲んだからたまらない。みんな酔っぱらって……」と地の語りで説明しちゃって、次のシーンにつないじゃう。その途中を聴かせる技術がない。

その「省略」を芸と見るか、無芸と観るかで可楽の評価は分かれるのではないか。『落語名人芸「ネタ」の裏側』には「禁酒番屋」についての記述はなく、それは残念なのだが、「らくだ」で死んだらくだの頭の毛をむしるときの描写などから、可楽が談志の言うほどには工夫のないわけではなく、むしろ「調べる」人だったのではないか、という推測がしてあって興味深い。可楽の特徴である「舌っ足らずな感じ」「(フレーズを)吐き捨てた感じ」にも言及があり、好きな人の評だということがよくわかる。特に「うどんや」について、「夜とその寒さの表現が見事」と言っているのには頷かされる(談志も前掲書で「うどんや」は「いい」と言っている)。あと、可楽はタブーとされている「チッ」という舌打ちにも味がある、という指摘にも。

そうそう、あの舌打ちがあると、夜の寒さとかうらぶれた感じが際立つんだよね。

読んでいて、あまりの文章のとんでもなさに笑ったのが若き日の円楽である。この人が相当な天然であるという噂はよく聞くが、まとめて書かれたことがなかったように思う。文章からも窺い知れるのではないか。以下は、「汲み立て」を演じるにあたり全生時代の円楽が書いた「感どころ」である。なぜか落語とは関係ない旅行の話で始まる。

東北大学落研の帰途、作並温泉へ行った。メンバーは志ん朝・船本・私の三人。諸事命令的な番頭の声に送られて、さざえのドンケツのような風呂場へ行く。くもの巣張り放題のきたなさ、モウモウたる湯気に、眼がなれてくると、三者の眼が一点を凝視した。女が後向きに体を洗っている。三人共こっちを向かしたい心持、志ん朝が心得たりと、つかつかと進んで女に言った。

「あの…今、何時でしょうか…」

そんな気分で「汲み立て」を喋ってみたいと思います。

それ、どんな気分だよ! 「汲み立て」ってどんな噺なんだよ! わからないよ!

星の王子さま、恐るべし。ちなみに小ゑんこと談志の文章はもっと普通です。興味がある人は本を買って読むこと。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

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