芸人本書く列伝classic vol.19 樋口毅宏『タモリ論』~メルマ旬報連載を辞めるつもりだった原稿

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以下の原稿では樋口毅宏『タモリ論』をとりあげている。水道橋博士から、全連載で同書についてなんらかの形で書いてもらいたいという要請があったのだ。樋口氏はメルマ旬報の連載陣の一人であったので、その形で応援しようということである。

実はこのとき、メルマ旬報の連載を辞めるつもりでいた。正確に言えば、この原稿を送ってもし掲載を断られたら辞意を申し出るつもりでいた。原稿の前半で『タモリ論』についての話題を打ち切って、連載そのものの意味と書評家の姿勢について書いているのはそういう理由である。ここに書かれていない情報としては、私は『タモリ論』をとりあげることをいったん拒否したが、水道橋博士から「メルマ旬報全体の方針だから」という再度の要請があって引き受けたという経緯がある。編集権の発動であって、それ自体はやむをえないことだったと考えている。編集者には誌面を統制する権利がある。嫌ならば、執筆を断って連載を下りればいいだけの話だ。

送稿後、編集者の原カント君からはすぐに掲載しますという連絡があり、何事もなくメルマ旬報は発行された。水道橋博士は読んで、私の考えを理解したものと受け止めて以降の連載は続けている。

この原稿からすぐであったか、それともしばらく経ってからだったかは記憶していないが博士から、以降は選書を一任するという連絡があった。この回の影響もあるとは思うが、もともと往復書簡という形式自体が博士に負担をかけるものだったので、当然の帰結であろうと思う。

少々長めの前置き、以上。

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タモリ論 (新潮新書)

最初に書いてしまうと、私は正午から生放送されている「笑っていいとも!」を10分以上続けて観たことがない。

「笑っていいとも!増刊号」のほうなら、ある。

それはなぜかというと、初期は嵐山光三郎が編集長役で出ていたからでR、いや、ある。

実を言うと「タモリ倶楽部」のほうもあまり観たことがない。これは単純な理由で、金曜日のその時間はお酒を飲んでいることが多かったからだ。

こんな人間が『タモリ論』、あるいはタモリその人についての原稿を書くのはよくないことである。後で触れるが、千原ジュニアや東野幸治の本について書くことについては不可だとは思わない。それは芸人による芸論だからだ。

しかし『タモリ論』(新潮新書)はそうではない。この本の著者は、小説家の樋口毅宏である(樋口氏とは一度お会いしたことがあるのだが、ここでは敬称は略させていただく。失礼)。第三者が芸人の芸について触れた本を、私が評する資格はないと思うのである。

ゆえに今回の原稿については、編集部に掲載の可不可を一任する。もし不可であるという判断になったとしても、まったく遺恨には思わないし、原稿料をいただけなくても構わない。

そんなわけで今回の原稿は読んでください(読めないかもしれないけど)。

『タモリ論』は、長年のタモリウォッチャーであると自認する樋口毅宏が、「同じくお笑いの世界の盟主であるビートたけしと比べると、正当な評価を受けていないのは誰の目にも明らか」であるため、その偉業について語りたい、という意図で書き下ろした本である。

しかし、そのことには大きな困難が伴う。人を笑わせるという行為が難しいということを、知れば知るほど、笑いの芸について語ることはしにくくなっていくからだ。

私が本書でもっとも賛同した個所は、この認識である。

たしかに笑いについて語ることは難しく、餅は餅屋の部分が大きいと思う。

樋口は、笑いを語ること自体が野暮だとも言うのだが、それにも同意する。たまには野暮なことをしてみてもいいとは思うが。だって、立川談志だって、ビートたけしだって笑いに関する著書を出しているわけだし。人間、ちょっと野暮なことをしてみるくらいでちょうどいい。しかし、それは談志だから、ビートたけしだから許される野暮なのであって、笑いの素人がそれを行えば、単に醜態を晒すだけだろう。

さらに樋口は、1980年代のビートたけしが、自分に(及び笑いの芸に)媚び擦り寄ってくる文化人を否定し「モノを作れないおまえらが偉そうにオレの評価を決めるな!」といった物言いをしていたことを引き、こう書く。

このスピリットは僕にも受け継がれました。評論家でも町山智浩や山崎洋一など、他大な影響を受けた方からの称賛には素直に有頂天になりますが、単なる感想文や表層的な印象論を垂れ流すことしかできない、その他大勢の評論家からの賛辞はむしろ邪魔。もっと言えばありがた迷惑だと思っています。だから僕も「芸人ではない自分が評論家ヅラをしてお笑いについて語るなんて、そんな愚かなことをしてはいけない」と、自分に言い聞かせていました。

つまり、笑いの芸について「半可通」のそしりを受けることを自分は覚悟しているという表明である。これは幾分謙遜も混じっていて、樋口は本書の中では「単なる感想文や表層的な印象論」を書いているわけではない、と私は思う。

本書で採り上げている芸人のうち、私が少しでも知識を持っているのはビートたけしだけなのだが、第三章で樋口は北野武監督映画についての分析を行っている。その中では、北野監督が用いている技法がどの作家の模倣であるかをきちんと例を挙げて示しているのである。この個所を読めば樋口が、対象をよく研究して分析的に作品を鑑賞していることが判るはずだ。タモリ、さんまについては私に知識がまったくないため、2人についてもそうなのだろう、としか私には言えない。

少し話が逸れたが、そうした努力をしてもなお、半可通とそしられる可能性は残るはずである。それはビートたけしが言うところの「モノを作れないおまえら」云々の中に樋口が(あくまで笑いの芸という意味では)属している以上、不可避の事態だ。それゆえ樋口は、「はじめに」の章をこうまとめる。

しかし予てから、小説の中で小ネタとして使い切れないほど大量の「タモリうんちく」を抱えていました。「笑っていいとも!」と「タモリ倶楽部」、そしてタモリへの積年の思いを洗いざらい吐露したいという気持ちがありました。

タモリとお笑いへの思いを一冊にまとめる。

そのためなら僕は喜んで、馬鹿になろうと思います。たとえ読者のあなたから、そして当のタモリから礫を投げつけられようと。

ここまで読めば自明だが、樋口は本書の中で書こうとしているのは客観論ではないのである。ここで語られているのは、あくまで「自分が観続けてきたタモリ」にすぎない。どこまでいっても「個人的体験」の中に留まっていくわけであり、それはある事象を切り取る際には有効な語り方である。これは小林信彦が『天才伝説 横山やすし』や『おかしな男 渥美清』(ともに新潮文庫)で試みたことと同じだ。一回性があり、その場にいた者しか共有できないものについては、基本的に個人的体験として記憶を残す以外に芸の保存の道はないのですね。森高千里が歌っていた、「オレは10回ストーンズ、観に行ったぜ」というあれだ。

個人的体験は別の個人的体験と照合することによってのみ批判が可能である(小林信彦が村松友視の『トニー谷、ざんす』を否定していたのはそういう理由で、自身の個人的体験からすると伝記を書くほど十分に村松がトニー谷を観ていないという判断をしたのだろう)。第三章の北野武映画に関する箇所など、資料によって確認が可能な部分以外は、樋口なみにタモリを観てきた人間以外は、本質的に書かれている事実を批判することはできない。ゆえに本書は、芸論、芸人論としての書評を拒むのである。いや、評者がタモリについて樋口と同等の個人的体験を持っていれば話は別だが。

私はそうではない。

したがって、私にとってこの本は樋口毅宏という作家のメモワール(回想記)としての意味しか持たないということになる。つまり、見えてくるものはタモリではなく、樋口毅宏だということだ。

そのつもりで読むと、タモリのことを語っている箇所に樋口毅宏の執筆姿勢が見え、たけしについて分析している個所に樋口毅宏の創作技法が見えてくるように思う。誰にも真情を漏らさずに生放送の司会を続けてきたタモリの孤独について考えるとき、樋口は自分自身の作家としてのありようを述べているように見えるし、ビートたけしのコラージュ技法(パクリとわかりやすく書いているが、コラージュだろう)について触れているときは、尊敬する元ネタのパロディを自作に盛り込む、樋口の小説のありようを思い出した。メモワールとして本書を読んだ以上、当然の現象だ。

私は「テレビを観ている樋口毅宏」を眺めるつもりで本書を読み終えたのである。

それはおもしろい体験であったし、この本を好ましく思ったということだけを表明しておきたい。自分にわからないものは「好き」か「嫌い」かで述べるしかないですからな。

この本のことは好きであった。タモリについては、今でもよくわからない。

さて、ここまでが『タモリ論』について書くように、というお題についての原稿である。

以下は少し別のことを書く。『タモリ論』についてのみ関心がある方は、ここで読むのをやめてくださって結構である。いちおう書評家の顔に戻って申し上げるが、六八〇円の定価でこれならば、買って損のない内容だと私は思います。ただしあなたがタモリフリークだったら、私とは違った観点からこの本を読むはずなので、その場合にどういう評価をくだすかは類推しかできないのだけど。

というわけで、『タモリ論』の話はおしまいです。おつきあいいただき、ありがとうございます。

はい、お帰りはあちらです。

……。

……、……。

えー、いいのかな?

以下は本連載について、少し書かせてもらいたい。

この連載は、編集長である水道橋博士から私が課題図書を指定され、それを読んで書くという形式をとっている。

実は連載の依頼を受けて内容について相談していたとき、一度はその形式をお断りしたのである。書評家としての独立を守りたかったからだ。

お題をもらって書くような書評というのはある。しかしそれはたいがい単発の仕事の場合で、依頼された書名が自分には合わないと判断したら、断ればいいだけの話である。

連載の場合はそうはいかない。編集側の意図でまわってくる本の書評をすべて引き受けていれば、自身の意志や矜持の問題とはまったく関係なく、御用聞きの書評家になってしまう。それは書「評」ではなく、単なる宣伝である。

だからお断りしたのだが、すぐに博士から返信をいただいて「独自性を侵すつもりはないし、指定された本を断ってもいい」という補足説明があった。

拒否権があるのであれば、話は別である。その形で連載をやらせていただくことにした。

実際に拒否権を使わせてもらったこともある。たとえば、そういうお題形式の場合、自分の本業である小説は取り上げにくい。また、メルマ旬報連載陣の本も仲間褒めと外部の人には見られそうなので、できればやりたくはない。

そして、連載を始めてすぐのあたりで博士から、採り上げる本は芸人本に限ろうという提案があった。それにはすぐに賛成している。芸人本には関心があったからだ。

私はほぼテレビを観ないし、極端な活字人間だと自分のことを思っている。その私がなぜ芸人本をとりあげることを是としたかといえば、絶対に自分にはわからない世界を書いたものだと考えたからなのである。そのわからないものをわからないままに自分の中に取り入れれば、そこに豊かな化学反応が生まれるだろうという予感もあった。

芸人にとって「芸論」とは、本当はもっとも語りにくいものなのではないか。たとえば球速150km/hでボールを投げることができる人に、なぜそんなことができるのか、と質問してもはかばかしい答えは出てこない。「練習したからだ」と言われるだけだ。だが、その投手に、前年に比べて外角への配球が増えたのはなぜか、というような細かい技術上の質問をしたとすれば、具体的な答えが返ってくる可能性がある。投手自身が意識して技術を磨いた部分だからだ。

芸人本における芸論もそのようなものではないのかと思う。私はその芸人がなぜすごいのか、に興味があるのではなく、その個所ではどうしてそういう表現をするのか、という現場の判断が知りたいのである。そういう個々の表現に関する言説は、文章を書くという自身の表現方法と対照することができる気もする。

そうした関心があって、優れた芸人本は喜んで読んでみたいと思ったわけである。この形なればこそ、テレビをほとんど観ない私が芸人本に向き合うことができた。表現そのものを評することはできないが、その人が自身の表現についてどう考えているか、であれば考えを述べることは可能なのである。

さて、ここからが記憶の曖昧な部分だ。

私は以上のようなことをきちんと水道橋博士に伝えたのだろうか。伝えたのだろうかって、問いかけられても読者は困ると思うのだが、私も実は困っている。

伝えた、ような気もするし、そうではないような気もする。

この連載の何回目かで水道橋博士の『藝人春秋』(文藝春秋)を採り上げた(実際には新しい原稿ではなく、別の場所に書いたものを再掲した上で長い補足を行ったものだが)。あの本を採り上げられたのは、私が『藝人春秋』を水道橋博士が他人の芸を評した本としては「読んでいない」からである。そうではなくて、他人の芸を評論するという行為が水道橋博士の場合はすでに自身の芸の一部となっていると判断し、そうした評論芸を披露することへの迷いが『藝人春秋』には現れていないか、と気になった。そういう視点であの本を読んだのだ。

これまでの連載で採り上げた本はすべて同じで、「芸人が自身の芸を語る」本についてしか書いてこなかった。

そのことの基本了解が編集長との間にとれていると私は思っていたのである。思い込んでいただけかもしれない。たしかめておけって話だが、たしかめなかったものはしかたないじゃない。

ところが今回、非芸人である樋口毅宏氏(もう『タモリ論』の話題は終わったので敬称をつける)の著書が課題となった。「芸人の書いた芸論」ではない本を扱うというのは、私にとっては予想外のことであった。

もし評論家が笑いについて書いた本をもこの先書評対象に含めるのであれば、私には論じることができない。理由は樋口氏が「はじめに」に書いたのとほぼ同じである。

どうなのでしょう、博士?

この先、私はどうしたらいいですか?

あ、もしかして連載打ち切り?

それならそれでも仕方ないのだけど。

どうなのかな。

あなたはこの連載、まだ読んでいたいですか?

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

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