杉江松恋不善閑居 ビートたけしの落語について(水道橋博士のメルマ旬報補足)

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立川梅春ことビートたけしの落語をちゃんと聴いてみたいと思いつつ、いまだ果たせずにいる。この場合のちゃんと、とは生で、ということを意味するので、当分先になりそうだ。

昨日配信された〈水道橋博士のメルマ旬報〉で、連載「芸人本書く列伝」は三冊の本をとりあげた。「師弟と芸名」で括って考えた三冊でもある。取り上げた順に書くと、林家木りん『師匠! 人生で大切なことはみんな木久扇師匠が教えてくれた』(文藝春秋)、ビートたけし『やっぱ志ん生だよな!』(フィルムアート社)、玉袋筋太郎『粋な男たち』(角川新書)である。

この連載の前回、山田ルイ53世『芸人一発屋列伝』(新潮社)を取り上げて書きたかったことと、『やっぱ志ん生だよな!』と『粋な男たち』の二冊には、一脈通じるものがある。端的に言うと「脇役」という自分の位置をどう考えるか、ということだ。一発当たる=スポットライトの当たる場所に出るのと「主役」になることは同義ではないので、対立したことが書かれているという意味ではない。続けて〈メルマ旬報〉の書評に目を通すか、上に挙げた本を読むかしていただければなんとなくわかってもらえると思うので、よかったらどうぞ。

書評では言いたいことは尽くした。なので以下は付け足しになってしまうが、今日になって気が付いたので。

ビートたけし・高田文夫・亀渕昭信の鼎談が以前「週刊文春」に掲載された。『あの伝説の番組が帰ってきた! ビートたけしのオールナイト文春]』として電子書籍化もされている。元ニッポン放送社長の亀渕はアナウンサー出身で「ビートたけしのオールナイトニッポン」放送時は編成局長などの要職に就いていた。

この鼎談の中でたけしは、中途の路線変更について発言している。

亀渕 ディレクターが森谷(和郎)君から鳥谷規君に移ってからかな、だんだん番組のマクラに落語や天体や物理、ピアノの話題が出て来るようになったよね。

たけし 放送開始の二、三年はウワーッと勢いに任せて喋ってたんです。だけど何て言えばいいのか、たとえていうと今の正蔵が古典落語に目覚めたみたいな感じかなァ。

高田 あの喋りは「源平盛衰記」だったわけ?

たけし うん、無理かもしんないけど、ベクトルを変えてみようかという。

「源平盛衰記」のたとえがはまらない人もいるかもしれないので、一応。地噺、つまり会話ではなくて演者の地の喋りを幹にした落語の一つで、このネタで売れた落語家には爆笑王・林家三平(初代)と立川談志がいる。三平は客席をいじることも辞さない〈押し〉の姿勢で噺の印象を一変させた。談志は若い頃から実力派として将来を嘱望されたが、二ツ目時代から始めたこの噺で一気に知名度を上げたのである。談志の「源平盛衰記」は、吉川英治『平家物語』を語りの中に取り込んだ点に斬新さがあった。主と従という言い方をすれば、その折々の時事ネタやジョークが主で、『平家物語』の軍記部分が従なのだ。そうした形で、三平・談志の二人は「源平盛衰記」を完全に改作した。「伝統を現代に」という談志最初期のスローガンを最も体現した噺、ということもできる。

高田の発言はそうした背景のある噺だということをもちろん踏まえてのものである。

「芸人本書く列伝」の中で私は1983年に発足した立川流Bコース、つまり芸能人に立川を名乗らせて高座に上がることを許す流れについて、当初の思惑通りそれが動いていたのは最初の10年間だけではなかったか、と書いた。Bコースで最も早く真打昇進を果たしたのは1988年の立川藤志楼こと高田文夫である。ビートたけしこと立川錦之助は、その名前では目立った実績を残していない。

だが見方を変えれば、「オールナイトニッポン」の中で彼は自身の考える落語的な話術の流れというものを模索していたことになる。たけしが高田と共に立川流Bコースに入門した1983年11月は、ちょうどそうした形で自身に落語要素を取り入れようとしていた時期ではないか。蛇足になるが、鼎談でひきあいにだされているこぶ平はこのころまだ二ツ目で落語家よりも海老名家の長男としての顔のほうがよく知られていた。意見の異なる人もいるとは思うが、1983年当時、落語界の爆笑王と呼ぶべき存在は、前年に月の家円鏡から師匠の名前を襲ったばかりの、八代目橘家圓蔵だった。

高田・たけしの両名を迎え入れた立川談志は、自身の提唱した「伝統を現代に」のフレーズの中で生涯揺れた人だった。生来の現実主義者として目の前にある現代は決して無視できないが、落語という芸能が伝統という礎の上に築かれたものであるという事実からも決して離れられない。その間で揺れ動きながら、理想に少しでも近いものを作ろうとし続けた。立川談志という存在自体がその運動の結果である。Bコース設立から2年後の1985年に発表した『現代落語論2 あなたも落語家になれる』(三一書房)の中にはこうした一節がある。

それならいっそのこと、現代の落語は現代に生きている人たちにに任せたらどんなものだろうか。その人たちとは、ビートたけしであり、山本晋也であり、横山ノック、毒蝮三太夫、山口洋子、上岡竜太郎である。こういう人たちに、現代を語る落語を分担してもらったらどうか。定着するまでには当然時間もかかるだろう。しかし、彼らは落語を語ってみたい。落語とかかわりともっていたい、という執念をもっている。資格は十分である。落語という作品をとおして、自分の人生を語る人もいるだろうし、それなりにも古典落語を通じて、新しい落語を創り上げる人も出てくるであろう。(後略)

落語家のスタイルは、いろいろあっていい。着物を着ていようが、洋服で通そうが、それは一向にかまわない。要するに、現代の落語家は、その生き様で勝負するのだということを忘れなければ、それでいい。(後略)

落語家であるための資格としてスタイルを問わない、と宣言しているわけで、これがBコースの原点にある考え方である(後にもっとも実績を残す高田文夫の名前を、この時点では挙げていないのがおもしろい)。こうした姿勢に共感したからこそ立川錦之助は誕生したのだろう。入門の時期から判断すると、談志の決断とオールナイトニッポン内の落語化実験は並行して、前者とは無関係に後者が行われていたとみるべきだろう。自ら落語を試みようと考えたビートたけしがBコースに入り、現実の落語家たちとの接触を持ったことでどのように考えたか、それが自らの針路変更に影響を与えたか否か、については機会があったらぜひ読んでみたい。含羞の人であるビートたけしは、まともにそれを語ろうとはしないだろうが。

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