杉江松恋不善閑居 世の中でいちばん食いたいもの

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相変わらずの療養生活を送っている。

といっても糖尿病患者として血糖値を抑えるようにし、体重が増えないように気遣いながら日々そろそろと暮らしているだけである。

相変わらず悩まされているのが何度も書いている視界不良、そしてインクレチン注射の副作用による、食後の吐き気だ。前者については日光をあまり浴びないように気をつけたり、長風呂を我慢したりすれば発症は抑えられるらしいことがわかってきたので、それほど困ることはない。ただ後者の吐き気についてはどうにもならず、食事が憂鬱でさえある。

昨日口にしたものを書き出すと、以下の通りだ。

朝、松本で買ったおやきを一つと、ヨーグルト200g。

昼、同じくおやき一つとグレープフルーツ一個。

夕、カニ玉を少しとベビーリーフのサラダ、こんにゃくの煮物。ご飯を二口。

糖尿病患者のために『最新決定版 リングカード式 一生使える毎日の糖尿病献立』という本が出ていて、夕食の作り方はそれに沿っている。決して病人食ではなくおいしいのだが、喉を通らないのである。私は米好きだが、それでも茶碗一杯を食う気にならない。

インクレチンを注射して二時間ほど経つと、次第に胸焼けと吐き気がこみ上げてきて、しばらく去ってくれない。乗り物酔いのときの症状がずっと続いているような案配だ。松本に行ったときは高速バスの中でずっとこれに悩まされていて、横に坐った人が気味悪そうな顔で見ていた。吐きそうな顔をしているのだから当然だ。

この吐き気がやってくるとわかっているからか、どうにも食欲が湧かないのである。井クレチンは朝と夕の注射だが、昼飯はそれに輪をかけて食い気が起こらないので、吐き気云々ではなく、そもそも欲求を抑え込むようにできているのかもしれない。痩せる薬など世の中にはないし、サプリメントの謳う効果など眉唾だと思っていたが、本当にあったとは驚きだ。ただし無償ではなく、副作用を伴うわけであるが。

そんな中、最近就寝前などによく見ているのが、大食いやデカ盛りを探求している人のサイトである。もう更新は休止してしまったがマエダンゴ氏の「テラめし倶楽部」や、ナツメグ氏の「デカ盛りとご当地グルメ食べ歩きブログ」などをしつこく見ている。食べる前と後に計量して3kgも盛ってあった、などと騒いでいるのがおもしろい。

こういうことを書くと、そんなに大食らいだった過去が懐かしいのか、とか、他人が食うのを見るほどひもじいのか、とか同情されそうだが、まったく違う。これは無理をしているわけではなくて、本当に食べたくないのである。胃袋が縮んだのか、今では普通に出されるもりそばを一枚食うのも難儀なほどである。食おうと思えば入るのだが、後で間違いなく気分が悪くなるので、外食はほとんど控えている。そんな状態なので、度の過ぎた大盛りを見ると、食物というよりは何か他の物体に見える。それが誰かの体内に消えていくという減少自体に興味津々なのだ。

どのようなグルメ本を見てもまったく食べたくはならない。いろいろ試してみたが、美食を楽しみたいという欲求は完全に消えているようだ。

唯一の例外が「立ち食いそば」だった。松本からの帰り、社内で今柊二氏の『立ちそば大全』と『立ちそば春夏秋冬』を電子書籍で再読していたら、普通のたぬきそばの写真に胃袋が激しく反応した。

ご存じのとおり今氏は定食評論家で、ご飯とおかずと汁の三点セットが揃った食事を良しとする。そのためか立ち食いそばの本でもそばにおにぎりやカレーライスをつけたりすることが多いのだが、それは関心の埒外である。また、今氏はどちらかといえば冷やし派で、夏の盛りはもちろん、冬にも冷たいそばを頼むことがある。汁そば派で断然熱い方が好きな私にとってはそれも論外である。寒の内に冷やしを頼む人を見ると、なんということをしてくれた、という気分になる。前世で何かあったのか、と悲しく思うほどだ。いや、たかが立ち食いそば如きでそんなことを言われたくないだろうが。

私の立ち食いそばに関する好みは「より立ち食いそばらしいものを」ということに尽きる。だから「本格志向」を売りにする立ち食いそば屋を推す人に出会うと、見損なった、と思うし、この人とは長く付き合えない、と覚悟する。いや、たかが立ち食いそば如きでそんなことは言われたくないだろうが。

今さんとは何度かお会いしたことがあって、年齢もほぼ一緒だし、そのセンスも信頼している。だからこそ好みが違っても著書を追いかけているわけで、今のところお出しになった本はすべて複数回読んでいると思う。でも、そばは熱いほうが好きなのである。その違いをきちんとわきまえた上で『立ちそば大全』も『立ちそば春夏秋冬』も楽しく読んだ。

読んだ後で猛烈に食いたくなったのが、六文そばのげそ天そばである。あれが本当に食いたい。黒々としたつゆと太いゆでめんの上に乗っかった、小惑星のようなげそ天を齧りたい。つゆに浸して油が散っていくところを眺めたい。

したがって、今のところ私が世界でいちばん食いたいものはそのげそ天そばである。これに匹敵するものを考えたが、高校時代に愛好した、京王線分倍河原駅のコロッケそばという結論に達した。しかしその店はもう無いので、実現は不可能である。

げそ天そば、食いたい。食べたらきっと気持ち悪くなると思うけど。

これがそのゲソ天そば。うっとりする。

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