チミの犠牲はムダにしない! その9『笑点写真集』

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チミの犠牲はムダにしない! 第9回『笑点』(日本テレビ)

 2006年5月14日をもって、人気番組「笑点」の三代目司会者である三遊亭円楽が降板する。円楽の就任は1983年1月9日のこと。以来23年間にわたって司会者を続けてきた番組の顔が抜けてしまうのだ。おまけに病気療養中だった林家こん平も降板が正式決定。後釜には、代理出演で師匠の穴を埋めていた林家たい平がそのまま留任するのだという。こん平師匠といえば、地方公演で「カバンにはまだ若干の余裕がございます」と暗にお土産を要求したり、「チャーザー村」をめぐるやりとりで三遊亭楽太郎と抗争をくり広げたりと、「笑点」メンバーの中でもひときわ明るく陽気なキャラクターで人気を集めていたものであった。この2人がいなくなるということで、言いようのない寂しさを覚えているファンも多いはずである。

ねえ。これで1つの時代が終わったなあ、なんて思ってやしませんか。

思う? ね、そうでしょう?

でも、私はそう思わないのである(無理矢理共感を求めといて何であるが)。たしかに円楽政権は長かった。円楽時代が始まり、出演メンバーが桂歌丸、三遊亭小遊三、林家木久蔵、三遊亭楽太郎、林家こん平、三遊亭好楽の六人に固定されてから早18年(1988年4月3日に桂才賀が降板し好楽と交代)。18年といえばその年に生まれたこどもがストリップ劇場にいけるほど成長する長さである。たしかに長い。あまりに長すぎて、この時代が終わらないのではないかという錯覚を覚えるファンが出てきてもおかしくないほどである。この感じは、かしこくも63年にわたって在位され、年号が永久に代わらないのではないかとの錯覚を呼んだ昭和天皇を連想させる。しかし永遠に続くものはないのである。時代は変わる。

実は「笑点」に関していえば、私は23年前に今回と同じような喪失感を味わっている。当時の司会者であった三波伸介氏が剥離性大動脈瘤破裂のために急逝したのである。時は1982年12月8日。奇しくも真珠湾攻撃と同じ日付であり、1980年に狂信的なファンの銃撃によって落命したジョン・レノンと同じ命日である。ジョン・レノンの死が全世界のポップス・ファンを嘆かせたように、三波伸介の死は「笑点」のみならず「お笑いオンステージ」「三波伸介の凸凹大学校」などのバラエティ番組のファンであった私を嘆かせたのである。三波の持ちネタではないが「びっくりしたなあ、もう」と私は驚愕し、「これじゃあ○は上げられないよ」と気持ちが落ち込み、「凸凹大学校終わりだよー」と悲嘆に暮れたものである。本当、がっかりしたのだ。当時のレギュラーメンバーは、歌丸、木久蔵、楽太郎、こん平、好楽(当時九蔵)、才賀(当時古今亭朝次)の6名。小遊三はまだ参加しておらず、好楽はこのあと一旦番組を離れることになるがその前であった。ちなみに座布団運びは山田隆夫ではなく、松崎“手を挙げて横断歩道を渡りましょう”實だった(1984年10月7日に交代)。

たしかに円楽の在位23年は長いが、三波伸介時代だって長かったのである。初登板が1970年12月20日。以来約12年間にわたって司会を務めてきたわけだ。その歴史については、現時点で最新の「笑点」活字資料である写真集『笑点』で振り返ってみよう。ちなみに上に記した放映日などのデータも、すべてこの本からの引用である。放映年ごとにできごとが整理してあり、「歌丸・小円遊の手打ち式は1972年8月27日」(後述)「三遊亭楽太郎・カール・ルイス対決は1991年6月2日」(座布団十枚のご褒美。当時瀬古利彦に顔が似ていると言われていた楽太郎にカール・ルイスとの対決機会が与えられたのだ)「『笑点の穴』コーナー開始は1996年11月3日」(若手芸人が番組出演権をかけて争うコーナーで、無名時代のグループ魂、アンジャッシュ、ますだおかだなどが出演。たしかこのコーナーはお笑いプロデューサーの木村万里が構成に関与していたはずである)などなど、さまざまな知識を得ることができる。「笑点」ファンなら必携の一冊だ(番組の構成作家に『恐怖! あなたの知らない世界』などで知られる心霊現象研究家の新倉イワオが参加していることも、この本で知った)。

「笑点」の初代司会者は立川談志。番組の前身である「金曜夜席」から続いて司会を務め、1966年5月15日の第1回から、1969年11月9日に二代目前田武彦に交代するまでその地位を守った。番組の黎明期である談志時代はそのキャラクター通りアダルトな雰囲気の「笑点」であったといい、自分の人脈を通じて俳優の石井伊吉を座布団運び役として番組に引きずりこむなど、立川談志の番組という性格が強かった。石井伊吉は後の毒蝮三太夫。当時「ウルトラマン」「ウルトラセブン」に連続出演していた石井が、こどものファンが『笑点』収録スタジオにつめかけてうるさいため毒蝮三太夫に改名したというエピソードはゲッツ板谷『わらしべ偉人伝』(扶桑社)でも紹介されているから、みんなで読もう(宣伝)。談志と毒蝮のエピソードで好きなのは、駅のホームで電車を待っているとき突然毒蝮が談志をつきとばしたという話。電車がちょうど来かかって談志は危うくしにかけた。「気にするな、洒落だ、洒落だ」と笑う毒蝮に「洒落で突きとばすやつがあるか。死んじゃったらどうするんだ」と怒る談志。すると毒蝮は「談志は洒落がわからない奴だと言ってやる」(『談志楽屋噺』文春文庫)。おそらく当時の「笑点」の笑いも、こんな感じだったのではないだろうか。しかしブラックかつスラップスティックな笑いを主張する談志と他の出演者・製作者側の方向性が合わず、談志は毒蝮とともに降板することになるのだ。

二代目司会者は放送作家の前田武彦。前田の在位期間はわずか1年間と短いが、前田時代に「笑点」では画期的な出来事が起きている。現在でも使われている「笑点のテーマ」が作られ、前田の登板第一回から流されたのだ。作曲・中村八大で作詞・前田武彦。オールドファンでも知らないことの多い、この「笑点のテーマ」歌詞は、『笑点』で参照していただきたい。番組で流れたテイクの歌い手は、前田武彦自身だ。司会に主題歌まで歌ったのだから前田も談志のように「笑点」を私有化することはできたはずなのだが、それをしなかったのは、本業が放送作家ということで落語家への遠慮があったためだろう(同時期に、『巨泉・前武のゲバゲバ90分』の司会も始めていて、そちらとの兼ね合いもあったものと思われる)。そこで三代目司会者には浅草軽演劇出身の芸人で、落語家に負けずにズケズケと物を言える、三波伸介が選ばれたのではないかと推測する。

当時こどもだった私にとって、三波伸介のイメージは、「でかくて怖い」であった。三波が伊東四朗・戸塚睦夫と結成していた「てんぷくトリオ」(元の名前は『ぐうたらトリオ』)の全盛期を私は観ていないが、トリオの座付き作者をしていたころの井上ひさしが書いたコント台本(『井上ひさし笑劇全集』講談社文庫・絶版)を読むと、三波にはそうしたイメージの役柄が割り振られていたことがわかる。だからこそ「お笑いオンステージ」では「満点パパ」などというコーナーが設けられたのだろう。これは、有名人のこどもが登場し、三波がその子から特徴を聞いて父親の似顔絵を描くというものである。巨体でいかつい三波がこどもとからむ絵面の対比がおもしろかったのだ(もっとも三波がこども好きであったという話はあまり聞いたことがないが。三波はブルーフィルムの収集家としても有名だったはずだ)。この番組で三波に絵心があることは世間に知れわたり、「凸凹大学校」では人気コーナー「絵スチャー」が誕生するのだ。ジェスチャーの代わりに絵を書いて言葉を説明するというゲームであり、ここで「ずうとるびの江藤は絵が下手」という伝説が生まれた(とにかく、何を描いても脚のついた芋虫になってしまうのである)。

話がだいぶそれた。とにかく司会者としての三波のイメージは、「飯場の親方」か「地方のヤクザ」であった。人気コーナーである大喜利の司会ぶりにいちばんそれは現れていたと思う。「山田君、一枚とってしまいなさい」と厳しい指令を出しながらも終始にこやかな笑みを絶やさなかった(だからこそ恐いのだが)円楽が柔の司会だとすれば、三波の司会は剛だった。とんでもない解答に「一枚とっちまえ、この野郎!」と目を剥いて怒る三波に、当時の出演者は本気で恐がって「みせて」いたはずだ。

楽太郎の腹黒台詞、歌丸の頭髪いじり、円楽の借金(寄席〈若竹亭〉を経営して潰したことによる)などの出演者のキャラクターを生かしたネタの数々は、円楽時代になって花開いたものである。オープニングで楽太郎がこん平の厭味を言うだけで客席は沸く。次に挨拶をするこん平が「難しいことは、あたしにはわかりませんが」といなしたり「ご当地が第二のふるさと」と客席を味方につけて楽太郎に叛旗を翻そうとすることが、あらかじめ判っているからだ。そういった具合に、キャラクターの掘り下げが進んだからこそ、23年間も入れ替えなく番組を続けてこられたのだろう。しかしそうしたキャラクター路線の元も三波司会時代にあった。桂歌丸と、当時の出演者であった三遊亭小円遊(故人・1980年10月5日没)とが番組内で猛烈な罵りあいを演じ、大きな話題を呼んだからだ。これが番組内の現象にとどまらなかったことは、反目しあう2人がCMキャラクターに登用されたことでもわかるだろう(ハウス食品の『つけ麺』)。番組には2人を仲直りさせてくれという手紙が殺到し、ついに番組内で手打ち式が行われたほどだ。これほどまでに反響の大きい番組内キャラクターは、以降現れていないのである。

そんなわけで、私にとっての「笑点」黄金時代は、三波伸介が司会を務めた1970年代であった(立川談志は意外なほど三波の芸について言及していないのだが、自分の跡を継いで人気を博した三波に対するジェラシーがあるのではないかと思う)。しかし三波が亡くなっても番組は続き、三波時代を知らない円楽派のファンを生み出したのである。大丈夫。ショーはまだまだ続く。新たな「桂歌丸時代」に期待しようではないか。唯一の懸念は歌丸が、円楽と3歳しか違わない1936年生まれであることなのだが……。誰か師匠に養命酒を送ってあげて! あと、ロゲインも!

2006年1月に発売された写真集『笑点』は、番組40周年を記念して作られた書籍なのだが、奇しくも旧体制メンバーが揃った最後の作品となった。40年の番組の歴史を知るためには恰好の資料である。ファンならずともぜひ持っておきたい一冊だろう。ちなみに歌丸の司会者昇格にともなってメンバー入りする春風亭昇太は、平成の爆笑王として人気も高い落語家。「悲しみにてやんでい」「力士の春」などの奇跡の新作落語ではじめ注目され、古典落語の演者としても評価を上げた。テレビでそのおもしろさを実感したら、ぜひ噺の方も聴いてみてくださいな。

本書のお買い得度:

実は私、『笑点絵はがきコレクション』『新・笑点絵はがきコレクション』という2冊の「笑点」本制作に関与している。これは全ページが絵はがきになっている本で、はがきとして使うと、中身がなくなってしまう。2冊で2千円。それよりも写真集の方が200円安い。『絵はがきコレクション』のはがきを使って中身がなくなってしまったとお嘆きのあなた、ぜひ本書を買って笑点豆知識を取り戻してください。

初出:「ゲッツ板谷マンション」2006年5月14日

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