小説の問題「そこにいてもいいの、とあなたは聞く」辻村深月と長嶋有と伊集院静

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「問題小説」の書評欄はBOOKSTAGEという名称だった。

最初は1ページで新刊1冊の書評、そのあと新刊+文庫か新書の旧刊を1冊ずつで複数ページという形になった。やがて新刊の数が2冊になって、最終的には計3冊で4ページという形式に落ち着いた。

複数冊を同時に書評するのは、個人的にはとても難しく感じる。共通テーマを見いだそうとするあまりに、書評に本を従属させてしまいたくなるからだ。そういう強引なことをなるべくしないように、と思いながらやってきたが、ときどき失敗もした。

今回紹介するのは2011年7月号、わりと成功したほうではないかと思っている原稿だ。頭とおしりに紹介する以外の本の話題をくっつけて、計5冊の書評にできているところも気に入っている。

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そこにいてもいいの、とあなたは聞く

村田沙耶香『ギンイロノウタ』(講談社)には、孤独な主人公が雑誌のグラビアに写った男性の顔から目玉だけをいくつも切り抜き、押入れの壁に貼って閉じこもる、という場面が出てくる。虚構の目ではあるが、視線を感じることで主人公は安らぎを覚えるのだ。他者の視線を浴びずに生きることはできない。しかし現実の視線には耐えられない。だからこそ偽りの視線を作り出したのだ。そうしなければ、「今」「ここに」「ある」という当たり前のことにすら耐えられない。

ここにいていいのでしょうか。現代を描いた小説には、そんな問いが満ちている。自分は何者かになれるだろうか。そういう問いの前に、まず自分がいることについての資格の確認がくる。おずおずと、細い声でその問いは発せられる。自分はここにいるべき人間だと、自信を持っていえる者はいないのである。

%e3%83%80%e3%82%a6%e3%83%b3%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%89-4 辻村深月は、ミステリー分野から出て今まさに急成長を遂げている最中の作家である。先日、連作短編集『ツナグ』(新潮社)で吉川英治文学新人賞を受賞したばかりだが、今年はさらなる飛躍が期待できるだろう。雑誌連載がまとまって次々に刊行されており、その充実ぶりには目を見張るものがある。その到達点の高さを示すのが新刊『オーダーメイド殺人クラブ』である。これは切実な居場所探しの小説だ。

小林アンという中学二年生が主人公である。アンはアン・シャーリーから取った名前だ。母親が『赤毛のアン』の大ファンで、家中を少女趣味で飾り立てているような人なのである。

アンは長野県にある公立中学校に通っている普通の中学生だ。だが彼女にとって中学校の学級は、自分がどうふるまうか意識をすることもなしに存在が許されるような、のどかな場所ではない。常に自分がどの位置にいるかを確認しなければいけない。彼女の考え方はどんなときでも階級主義的で、自分よりも下位のグループにいる相手のことを見下している。たとえば、地味目なグループに属している小学校時代の友達と会話をしながら、こんなことを考えるのである。

――私は本当にびっくりしていた。派手な子たちが、同じく目立つ男子と付き合うのは珍しくないけど、地味な子たちの中にも、好きとか、付き合うっていうカルチャーが存在してるなんて知らなかった。

関心のない他人に「好き」という感情が存在することさえ否定するのだ。いや、他人にかまう余裕などないのである。「今ここ」にいることで精一杯だからだ。グループという階級の中で地位を保つことに必死すぎて、他のことを考えられない。「二十歳まで生きていることはないかもしれないと考えるほうが、ずっとしっくりくるし、気持ちが落ち着く気が」と考えるように、すべてのことから目を背けて日々を過ごしている。

そんなアンにも、他人と自分を差異化する趣味が一つあった。同世代の少年少女が行った凶悪犯罪を報じた新聞記事をひそかにスクラップし、切断された死体を模した人形の写真集を熱心に眺めるというように、死を思うことが彼女にとっての心の支えになっていたのだ。級友たちには到底理解できないだろうという優越の意識は、グループの中に埋没することなしに生きられない屈辱感を慰めるものであり、脱臭化された清潔なものだけを求める母親に対する反感に根拠を与えてくれるものでもあった。

そんな心の傾向が、ある日アンに突飛な思いつきを与える。自分自身を「殺す」ことによって、否定しようのない聖性を獲得しようと考えたのだ。当たり前の死では意味がない。特別なものでなければならない。そう決めた彼女は、自らが「昆虫系」と命名して蔑んでいた男子に、一つの依頼をする。

本書に描かれているのは、性格がもたらした悲劇である。他者の間に埋もれて生きることへの違和を払拭するために死を願うというねじれた論理は、アン自身の性格が生み出したものだ。彼女はひたすら「特別である」ことにこだわろうとするのだが、残念なことに彼女の思い込み自体は少しも特別ではない。自分のいる場所から外が見えないために絶望し、死を選ぶ。そんな心の動きは、どの自殺者にも共通したものだ。だからこそ彼女の一挙手一投足から目が離せなくなる。世にもつまらない理由で死を選ぼうとしているからである。読者と主人公の間にあるこの心の距離の乖離が、本書の肝だ。内側だけを見て破滅へと突き進んでいく人に投げる言葉は、いつも手前で消えてしまうのである。そんなことをしなくても、あなたはここにいていいのに。そうつぶやいた言葉は彼女に届かない。

年長の読者の中には、主人公の視野の狭さを嗤う人もいるだろう。作者はそれを承知の上で、あえて主人公を幼く描き、愚かに徹しさせていいる。稚拙な心の持ち主が存在するということから目を背けていないからだ。誰もがそうした段階を経由し、自分自身のものといえる居場所を見つけていく。

%e3%83%80%e3%82%a6%e3%83%b3%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%89-5『オーダーメイド殺人クラブ』ほどの過剰さはないが、長嶋有『ぼくは落ち着きがない』も、居場所が見つけられずにいる人々を書いた小説である。オリジナルの単行本は二〇〇八年に刊行され、このたび光文社文庫に入った。

小説の主舞台になるのは桜ヶ丘高校という学校にある図書室だ。もう少し正確に書くと、その一角をベニヤ板で囲んで作られた図書部の部室である。桜ヶ丘高校には本の貸し出しなどの業務を行う図書委員があるのだが、義務をおろそかにする委員がいるため、専任の図書部が存在するのである。部員たちはその狭い部室に集まり、他愛もないことを言い合いながら日々を過ごしている。この小説をユニークなものにしているのは、彼らが外で何をしているかがまったく語られず、あたかも部室に住んでいるかのように書かれている点である(この小説を読んだとき、幼い姉弟が図書室に住み込んでしまう、E・L・カニグスバーグ『クローディアの秘密』を私は連想した)。

外で何があっても中には持ち込まず、図書部員という役割を演じるのが、部室における暗黙の規則なのだ。しかし、それは桜ヶ丘高校図書部のみ限られたことはないだろう。本書の語り手である望美が感じるように「誰もがテレビや本や、あるいは先人たちのふるまいや、それぞれの心の中に降り積もった情報を参照して、言葉を外部に発している」ものだからだ。そうしたふるまいが上手くできない者がいて、時には脱落していくことがある。望美が一挙一動をひそかに注目している友人の頼子は、行動の制御が下手な人物なのだが、ある日「私に問題があるから、私が私を通わなくする」と宣言し、自らを不登校に「する」。図書部もまた、万全の避難所ではないのである。

『オーダーメイド殺人クラブ』のアンが、自らの存在を賭して世界に戦いを挑むような主人公であったのと対照的に、望美は自分を中心とした行動を起こすことに消極的な主人公である。彼女の第一義の役割は「観察者」なのだ。望美をはじめとする図書部員たちについても、表面的な「ふるまい」より先に踏み込んで描写が行われることはない。どこにいても不思議ではなく、どこにでもいるはずの人間として彼らは描かれているのだ。ある瞬間に望美は、「残像のように過去にもどこかに自分たちがいたような」感じを覚える。別の箇所で作者は、彼らが虚構内の存在であるということをあえて強調するような記述をしており、この二つは無関係ではない。

自分は今ここにしかいないのではなく、同じような「自分」は過去にも存在し、未来にもおそらく現れる。虚構の中に、自身の鏡像を見出す人もいるだろう。『ぼくは落ち着きがない』は、ここにしかありえないという優越感を個人からもぎとり、連続する時間の中に投げ返そうとする小説なのだ。『オーダーメイド殺人クラブ』の結末に衝撃を受けた読者は、同書とこの作品をぜひ読み比べるべきだ。

41tjkapjffl-_sx339_bo1204203200_ 伊集院静『いねむり先生』は、作者自身を思わせるボクことサブロウと、ナルコレプシーという奇病のために、どこでも突然睡眠に入ってしまう小説家の交友を描いた作品である。サブロウは敬意をこめて彼を「先生」と呼ぶ。

女優だった妻に、急な病気で先立たれたサブロウは、自身が壊れてしまったという感覚に圧倒され、無為の日々を過ごしていた。妻の死を乗り越えられないというだけではない。幼少のころに端を発し、いまだに克服できずにいる心の問題が、彼を苛んでいたのだ。そんなサブロウを心配した先輩のKが、彼を先生に引き合わせたのである。

先生に出会ったと同時に、サブロウはその人格に魅せられるようになる。『いねむり先生』という作品の素晴らしさは、サブロウと同時に、小説を読んでいるわれわれもまた、先生と相対し、その魅力に包み込まれるような気分にさせられる点にある。先生が仲間たちとギャンブルに興じているのを眺めながらサブロウが感じる「しがらみが外されたやわらかな水の中で魚がじゃれ合っているような、光りの射す水辺で仔鹿が睦み合っているような」雰囲気は、読者が受け止める安らぎに満ちた空気と、ほぼ同じものだろう。先ほどから使っている言葉を繰り返して言えば、サブロウは先生の中に居場所を見出し、読者もまたそのことに安らぎを感じたのである。

だが、先生との日々はぽかぽかと暖かい時間だけが続くわけではない。ある夜のこと、投宿先の場所へと先生を送っていったサブロウは、意外な光景を目撃してしまう。夜の神社の境内で、大きな欅の下にあるベンチに座り、先生は「闇の中に置き去りにされ」たかのように独りで、その「闇をじっと見つめ」続けていたのだ。

大樹とその下に佇むものというモチーフは、本書で何度も繰り返される。人は先生こそがその大樹だと考えている。しかし実は、先生もまたその下に立ち尽くす一人の人間に過ぎないのである。ただ心の中を見つめ続けることしかなく、どこにも行くことができない。そうした人のありようが、先生についてサブロウが考えるという行為を通じて、やわらかく優しく語られていくのである。

すでにお気づきのとおり、先生とは色川武大という本名と、阿佐田哲也をはじめとする筆名を使い分けて小説を書いた、あの素晴らしい小説家のことである。本書で綴られているのは、おそらく実話に基づいた内容だろう。サブロウが先生と過ごしたのは、現実に直せば色川武大が最後の長編小説『狂人日記』(講談社文芸文庫)を書いた時期だった。

『狂人日記』は、誰かとつながりたい、と切望しながらも思うように自分を統御することができず、また自分が他人と同じ人間であるとはどうしても確信できないために、決定的な一歩を踏み出すことができない男を主人公とした作品だ。その狂おしい心の動きが『いねむり先生』にも重ね合わされている。今ここにいるために必死の努力を重ね、疲れきった人こそまずこの作品を読むべきだ。

(初出:「問題小説」2011年7月号)

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