『立川談志遺言大全集』(講談社)の購読を始めてしまった。読み出すと止まらないからやめようと思っていたのに。第十三巻『芸人論/鬼籍の名人』は文春文庫『談志楽屋噺』の再録だが、手に取ればつい読みふけってしまう。「落語」が大衆芸能として絶大なる力を持っていたころの空気が魅力的に伝わってくるからだ。
談志の著書とはまた別の理由で、小林信彦『コラムの逆襲』(新潮社)の購入にも気が進まなかった。エンタテインメント時評の第一人者のコラムを読めば、必ず自信を喪失するだろうからである。年季が違う。小林のエンタテインメント観測は先の戦争中から始められているのである。その小林が、「映画というのは、作られた時代のムードがわからないと、理解できない」と断言し、かつ「極論をいえば、映画評論家は<自分が生きてきた時代の映画>を語ればよい」と書いていることはずいぶん励みになった。これは、<映画>の部分をほかのどんな文化に置き換えても成立する真理である。私もせいぜい時代に直面していかなければ。(昨年急逝したナンシー関は、その真理の優れた実践者だった。最新刊であるリリー・フランキーとの対談コラム『ナンシーとリリーの小さなスナック』(文藝春秋)は必読)。
私がしつこく付き合っているものといえばミステリーであり、特に八〇年代にミステリーブームが到来し、作品量が激増していった過程はずっと観察し続けてきた。ミステリーの概念が八〇年代にかなり変容したため、主流の顔ぶれはだいぶ変化したが、その変動を乗り越え、九〇年代以降も第一人者として活躍を続けている作家も多い。その中で三人だけ名前を挙げるとすれば、泡坂妻夫、連城三紀彦、皆川博子だろう。
ともに直木賞作家である(ただし受賞作はいずれもミステリーではない)。彼らは七〇年代には<早すぎた存在>であり、八〇年代の雌伏の後、九〇年代に先駆性を再評価されたという共通点を持っている。三人の中では、皆川博子の再評価がもっとも遅かった。皆川作品が一般に注目されるようになったのは、九六年の『死の泉』(ハヤカワ文庫)以降である。
最近集英社文庫に入った『花闇』は、八七年の作品である。直木賞受賞作『恋紅』(新潮文庫)が八六年発表だから、この作品を執筆していた当時の皆川は、時代小説の書き手として注目されていた頃だ。だが『恋紅』のような人情ものは皆川作品ではむしろ傍流であり、『花闇』の陰惨さ、幻想性こそが本来の資質に近い。
これはミステリーではなく、歌舞伎の世界を題材にした時代小説である。主人公は、幕末の歌舞伎役者、三代目・澤村田之助。田之助といえば、脱疽(あのエノケンもかかった病)のため両手両脚を次々に切断するという兇運に見舞われ、それでもなおかつ舞台に上がり続けた宿業の人である。この奇人の生涯を伝記上で平板に写生するのではなく、舞台の登場人物さながらの妖怪として描き出してみせるのが、皆川の技巧の見せ所。
語り手は、田之助の世話役を務める、市川三すじという下っ端の女形役者である。歌舞伎の世界が厳格な身分制度に支えられていることは不変の事実だが、幕末当時の女形など、貧窮すれば男色家相手に春をひさぐしかないほどの下層民だった。三すじの視点で田之助を語るということは、つまり最底辺から頂点の輝きを見つめるということで、残酷なまでの距離感によって、田之助の非人間的な美が巧妙に描き出されている。
しかも田之助と三すじは、役者という世界を共有する同志でもあり、田之助に向かい合う三すじの胸中には英雄の煌めきに対する羨望と同時に世界を同じくする者への同胞意識が宿っている。その意識ははじめ遠い憧憬に過ぎないが、脱疽のために田之助が落魄すると、二人の距離は次第に接近する。聖と卑の要素を体現する二人が最接近し、交わらずに再び離れていく一瞬の演出はとても美しい。
明治に入り、歌舞伎は田之助の兄弟子にあたる九代目市川團十郎によって近代化されるが、その代償としてかつての芸能が持っていた呪術的な力を完全に喪失する。田之助主従は、その主流に反する存在としても描かれているのである。この時代の歌舞伎界を舞台にしたミステリーとしては、北村鴻『狂乱廿四考』(創元推理文庫)や松井今朝子『非道、行すべき』(マガジンハウス)があり、もちろん旧くは戸板康二に『小説・江戸歌舞伎秘話』(扶桑社文庫)などの著作がある。私は歌舞伎の門外漢だが、この時代を題材にした作品はどれも滅法おもしろい。歌舞伎というジャンルが爛熟を極めた時代の空気が伝えられているからだろう。
さて、二〇〇二年のミステリー・シーンで記憶しておくべきことは、ノベルス不況の中で一人健闘していた講談社が、創刊二十周年記念企画の特別書き下ろしシリーズを刊行したことであろう。同社は持ち込み原稿奨励のため、持ち込み原稿を対象にしたメフィスト賞という賞を設置しているのだが、書き下ろしの執筆陣は同賞出身者である。いずれの作品も密室がテーマであり、分量は中篇程度。本全体が袋綴じになっているのがおもしろく、珍しい。通称、「密室本」である。
そういったパッケージで読者の目をひきつけ、内容は子飼いの作家に書かせるというのは、お手盛りの企画なのだが、不況の時代には、大作家のホームランを待つより、こうしたヒットを積み重ねる努力をしなければならないものであり、悪いことではない。「密室本」は分量が少ない分定価も安いが、今後は重厚長大作よりもこうしたお手軽な作品が読者に支持されていくはずである。講談社は先鞭をつけたことになる。
最新刊の『殺しも鯖もMで始まる』の作者浅暮三文は、第8回の同賞を『ダブ(エ)ストン街道』で獲った作家で、その作品はミステリー臭が少なく、むしろ普通小説に接近したものだった。そうした作品にも賞を与えるのがメフィスト賞の奥深いところで、ジャンルの底上げ・底辺拡大に役立っているといえる。
浅暮はデビュー後、『カニスの血を継ぐ』『左眼を忘れた男』(以上講談社)『石の中の蜘蛛』(集英社)などのミステリーを発表しているが、これらは人間の五感を一つずつ採り上げ、徹底的にこだわるという異色の作法で書かれた作品である。特に『石の中の蜘蛛』は二〇〇二年の収穫といえる出来だ。
それで『殺しも鯖もMで始まる』なのだが、これは浅暮が初めて正統的な本格ミステリーに挑んだ作品である。とぼけた味があっておもしろく、釣り好きな老人が川に行くと、愛犬が土に埋まった死体を嗅ぎ当ててくる、という冒頭からして変である。その死体が収まった穴の上の地表に掘り返された痕がまったくなく、どうやって死体を地中に入れたのかがわからない、という謎がまず提示される。さらに、死因は窒息死ではなく餓死であり、被害者は死ぬまでの間に「サバ」という謎の文字を書き残していた、と状況は実に不可解である。
探偵役は帰国した日系二世の青年なのだが、英語の格言ばかり呟いているので、周囲の人間がそのたびにとまどう、というくすぐりが可笑しい。たとえば「ニューカッスルに石炭を持っていく」というのは、石炭の産出地であるニューカッスルにわざわざ石炭を持ち込むのは余計なこと、という意味で「釈迦に説法」の謂なのだが、それを直訳で言うからわけがわからないのである。その他、村上の爺さんという怪演をするバイプレイヤーもあり、笑いの種には事欠かない。
惜しむらくは、謎解きに至るまでの説得力に欠ける点であり、たとえば犯人特定の根拠はダイイング・メッセージ頼りで薄弱である。第二の殺人のトリックもだいぶ無理をしている。作者がおそるおそる書いているのが読者にもわかってしまうというのは痛い。ただし、先も挙げたとおり個々のシークエンスは十分に楽しいものなので、先行作品に学んでプロットを練り上げたらとてつもない傑作が生まれそうな気がする。それは作者の本分ではないのかもしれないが、今後もぜひ本格ミステリーを研究し、書き続けてほしい。そういう無理な望みを抱いてしまうほど、変で愉快な作品だった。浅暮三文に注目である。
(初出:「問題小説」2003年2月号)