先月なかばに消しゴム版画家のナンシー関さんが急逝されてから、しばらく茫然とした日々を送っていた。この原稿を書いている七月七日は、本来氏の四十歳の誕生日であった。週刊誌上に連載されていた各コラムは、間違いなく後世に残るべき平成の名文である。各誌連載の未収録コラムの一日も早い単行本化を望みたいし、できれば現実の風俗事件と氏の書誌を対応させた全集が刊行されることが望ましい。最新刊『耳のこり』(朝日新聞社)を読みながら、冥福を祈ろう。
さて今月読んだ新刊の中で、もっとも「耳のこり」ならぬ「目のこり」、すなわち読んだあとも気になってしかたなかったのが、池永陽『コンビニ・ララバイ』である。池永は、九八年に『走るジイサン』(集英社)で第十一回小説すばる新人賞を受賞した作家で、まだそれほど著作数もない。本書は九九年から二〇〇一年にかけ小説すばるに連載された、コンビニエンスストア「MIYUKI」を舞台にした連作短編集である。
印象に残ったというのは、このコンビニエンスストアが舞台という設定のためでもあるが(理由は後述)、舞台よりは人物造形の方が気になった。第一話から最後の第七話まで主人公が異なり、前の話の語り手が次の話では背景に出てきたりする。そういった形の連作であるが、コンビニエンスストアの店長である幹郎が中心的な人物であることには変わりない。第一話と第七話の主人公は彼である。彼は息子と妻を交通事故で亡くした過去のために人生を半ば投げてしまった男なのだが、その描かれ方が問題なのである。
第一話「カンを蹴る」の幹郎はよくわかる。人生を投げてしまった男の身の処し方を描き、何かが欠落した人間に対する作者の優しい視点がはっきりしている。続く「向こう側」が本書の中ではいちばん出来のいい短編だと思うのだが、露骨な言い方をすれば、「セックスをしたいのに道具が役に立たない」男女のだめを描いている。次の「パントマイム」もヒモ亭主の話だから、そういった人々を描く作品集なのかな、と一人で納得していると、その次の「パンの記憶」あたりから、雰囲気が違ってくるのである。
どう違ってくるか。それは「ちょっといい話」になってくるのだ。あらら。そうなってくると少し話は違ってくる。「パンの記憶」「あわせ鏡」「オヤジ狩りの夜」と続く後半作では、幹郎が一種の擬制家族の父親として描かれているのだ。これはちょっとどうなのかな。
流行になった「アダルト・チルドレン」問題など、家族神話が崩壊し、血縁で集合したのではない擬制家族が一種の避難所として評価されるようになったのはここ十年の風潮だが、そもそもコンビニエンスストアにそれほどの求心性があるものなのだろうか。代金の授受以外は他人との接触が発生しない自己完結的な関係性こそがコンビニエンスストア文化の特徴だったのでは。だからこそその店長を聖化して描けばテーマ性が際立つのだ、という読み方はあるだろうが、何も無理してそう書くこともなかったのではあるまいか。次から次に、ドミノ倒しのように人間関係が続いていく、その観察描写だけでじゅうぶんだったと思うのである。作者が優しすぎたのかなあ。
そんなわけでちょっと私は疑問が残ったのだが、一読はお薦めしておきたい。進歩することに汲々として生きざるを得ない現代人にとっては、しばしの憩いを与えてくれる小説には違いないからだ。
ところで、最近ではもっぱら恋愛小説に注力しているが、九〇年代までの藤田は紛れもなく日本有数のハードボイルド小説の書き手であった。その藤田に、コンビニエンスストアを舞台にした推理連作集『野薔薇の殺人者』(光文社文庫)がある。元船員で傷害致死の前科がある男が主人公だが、九三年の発表当時はまだコンビニエンスストア店員をそのまま話の中心に据えることは危険だったのである。そういった理由づけ(前科があるなどの)が、絶対に必要だった。さもなければ必然性は得られなかったのだ。
まだ宮部みゆきの『人質カノン』(文春文庫)も発表されておらず、「引きこもり」という言葉も発明されていなかった。コンビニエンスストアが、対人関係に消極的な人々にとって重要な何かであるらしい、ということを気付く人はいたものの、それを中心に据えて都会の点景を描こうと考えはしなかったのである。そういった意味で、藤田の試みは非常に早かった。
そもそも藤田は、早期から冒険的な試みを取り入れて小説を書いていた。それは、私立探偵小説という古典的なスタイルが無視してきたサブカルチャーを意識して背景に描くという手法である。その代表例の一つが、九二年の長篇『ボディ・ピアスの少女』(光文社文庫)だろう。この小説では、分別ある大人の主人公である竹花探偵が十代の少女と寝てしまう。当時としては非常識な話だが、藤田が認識した現実は、そういった性の少女化が如実な現実だったのである。小説の中に描きこまれた風俗はたいていの場合急速に風化する。それを懼れるなら、描かないことである。だが、藤田はあえてこだわった。風化の危険性は承知の上で、動態の現実を紙の上に留めることに熱意をもっていたのである。『野薔薇の殺人者』は、その試みの一つだった。
『転々』は、九九年の作品である。九九年は第六回島清恋愛小説賞を受賞した『求愛』(文春文庫)発表の翌年であり、藤田が恋愛小説の方へ軸足を移していった転換期の年にあたる。これは非常に奇妙な小説だ。ある女性に恋愛をしたことから多額の借金を背負った青年と、中年の男が徒歩で東京都内を歩くというだけの小説である。出発点は吉祥寺。そこから西進し、最終的には霞ヶ関を目指すのだ。一種のロードノヴェルと考えていい。
ロードノヴェルはたいがいの場合単なる紀行文学ではなく、旅の始点から終点の間に主人公の成長を期待する教養小説の性格をもつことが多い。旅の期間というのは限られた短いものなのに、そこで人が成長するというのは、さまざまな出来事が襲来するからだ。
この小説の場合、その期間は極めて短い。吉祥寺から霞ヶ関というのは、下手したら一日で踏破できてしまう距離である。もちろんそうはならず、数十キロを歩ききるのに二人は何昼夜かをかけることになるのだが、それは二人のうち片方が持っているある思惑のためで、読み進めていくうちに、なぜ徒歩旅行でないといけなかったのか、判っていく仕組みになっている。そしてもちろん歩くのに時間がかかるのは様々な出来事のためでもあり、凝縮した時間の中でいくつかの非日常的な事件が起こるために、小説はファンタジー的な要素を帯びている。そんなに次々に事件が起きる現実というのはありえないからだ。何昼夜かの物語であるが、通読すると一夜の出来事であったような錯覚も覚える。邯鄲の夢のような小説でもあるのだ。
おもしろいのは、彼らのたどる経路だ。出発点は吉祥寺だが、その後は幹線道路・鉄路を避け、新宿などの繁華街を迂回して都区内に入りこんでいる。ほとんどの事件は山の手線の外側で起き、最後のクライマックスは根津で迎える。武蔵野台地のへりを、ぐるっと回り込む形になっているのである。新宿-渋谷といった山手線の周上に位置する繁華街と、六本木-赤坂-銀座といった宮城周辺に周内に位置する繁華街とが拡大して結合することにより、東京は世界に類例がないほどに肥大した都市になっていった。二人の歩みは、その波にまだ飲みこまれていない場所を縫ってのものなのだ。
そもそも前出の作品に登場する竹花探偵の事務所も、恵比寿南二丁目。防衛庁技術研究所のある、山手線周外の場所だった。また、『理由はいらない』の主人公・相良は、下町ヤクザの息子という設定だった。藤田の都市に対する視線は、こういった都市の外延上からのものなのである。いまだ都市化されていない場所から、ぶくぶくとした肥大が足元まで迫っている様子を観察すること。これは、東京という都市の鬼子を題材とすることによって、初めて可能となる試みだった。『転々』はそういった試みの一つの完成形なのである。都市に住む人は、一度読んでおいた方がいい傑作である。
(初出:「問題小説」2002年8月号)