小説におけるかっこいい町とかっこわるい町というのがあるように思うのです。
たとえば、一昔前だったら、六本木は疑いようもなくかっこいい町だったろうけど、今臆面もなく六本木をかっこよく書くのはかっこ悪いことである。逆に本郷あたりを書くのは、少しばかりかっこいいかもしれない。つまり洗練された、常時かっこいい町というものが、東京には存在しなくなってしまったんですね。きちんとした町文化を破壊するからこういうことになる。そこに住んでいる人の声が失われたら、あとは町を漂う「お客さん」の声しか聞こえなくなってしまうのだ。「お客さん」は飽きっぽいから、真の意味での町文化を育ててはくれない。
ミステリーは一種の風俗小説だから、このかっこいいとかっこ悪いの波を真っ向からかぶってしまう。たとえば、大沢在昌の「新宿鮫」シリーズは、かっこ悪い町だった新宿を一生懸命かっこよく書くことで脚光を浴びた小説だったわけである。これはもともと大沢が新宿の町っ子じゃなかったからできたことだろう。他の町で遊んでいた人がたまたまこの町を発見したためにああいう小説ができたわけである。その「かっこいい」の座りをよく感じるか、感じないかでシリーズに対する印象はずいぶん変わってくるはずだ。ましてや、さらに十年後の読者がこの小説を「かっこいい」と受け止めてくれる保証など、どこにもないのである。風俗小説の怖いところ。
そこでお薦めするのが、逢坂剛の『しのびよる月』である。この連作短篇集で書かれているのは、お茶の水界隈の町だ。
逢坂剛の仕事場は神保町にあるのだが、その周辺のことだけが入念に描き込まれた小説なのである。ここには珍しく町に住んでいる人の視点が生きている。
主人公の斉木斉と梢田威は御茶ノ水署生活安全課保安二係の刑事である。斉木が係長で梢田が平刑事。具合の悪いことに二人はもともと小学校の同級生で、梢田は学校一の秀才だった斉木をいじめた前科があった。その斉木が上司になるというのはいかなる運命の悪戯か。しかも梢田が巡査部長への昇任試験に落ち続けているために、この腐れ縁の関係は一向に解消される気配がないのだ。
ところで生活安全課というのは、昔は保安課といったところで、軽犯罪や少年犯罪などを取り締まる課である。したがって斉木と梢田が担当する事件も、市井のみみっちい犯罪ばかりだ。たとえば電話ボックスの中で客引きをする商売女を捕まえたり(「公衆電話の女」)、消火器の訪問販売を取り締まってみたり(「危ない消火器」)と、地味なことこの上ないのだが、それが結末で謎も華もあるミステリーに化けるのが見事なところだ。例えば「避けた罠」などは、大トラの酔っ払いを一人留置場に放りこんだだけのはずが、いつの間にか巧妙な殺人事件になっている。大いに力こぶを入れるようなところがなくてあっさりとした出だしなので、すんなりと小説の中に巻き込まれ、驚かされてしまう仕掛けである。
言うまでもなく四十絡みの斉木と梢田は相当にかっこ悪い。管内の中華料理屋でただ酒を飲もうとして店の親父にどつかれるなど、どうも存在の根底からかっこよくないのである。逢坂はその醜態を悪びれずに書いている。
四十男がかっこ悪いなんてあたり前ではないか。
それをかっこよく見せようとする助平根性の方が余程かっこ悪い。
そんな風に主張されると、なんだか毅然としたダンディズムを見せられたような気がして、とてもかっこよく思えてきてしまうから不思議なのである。
町を描く態度も同じで、小説家が親しみを感じている町のことをあるがままに描いているだけなのだが、その自然な姿勢がかえって描かれた情景を魅力的にしている。これまでそういう視点で語られることのなかった逢坂だが、今や絶滅しつつある「東京っ子」小説家としての側面に注目すべきなのかもしれない。続篇『配達される女』(集英社)や、岡坂神策ものの新作『牙をむく都会』(文藝春秋)などと併せ読んで考えたいところだ。
さて、かっこ悪いことをかっこ悪く書くエッセイといえば、かつて殿山泰司や小沢昭一といった名手がいたが、今は断然浅草キッドにとどめを刺すだろう。
万が一彼らのことを知らない読者がいるといけないので紹介しておくが、浅草キッドの二人、水道橋博士と玉袋筋太郎はあのビートたけしの弟子である。しかも「ビートたけしの弟子である」ということに安閑とせず、今どき珍しく浅草のストリップ小屋から下積み修業を開始した真正のたたき上げ芸人だ。小さくまとまったサラリーマン芸人とは違い、逸話にも事欠かない。ちょっと数え上げても「ラジオで公開包茎手術事件」「水道橋博士偽造変装免許証で書類送検事件」「二代目ツービート襲名強行事件」など、枚挙に暇がないほどである。
その浅草キッドが書くコラムが飛び抜けておもしろい。今ある連載では、「東京スポーツ」の月曜版に掲載されている「浅草キッドのステ看板ニュース」がよくて、ぎゅっと凝縮された漫才をナマで見せられている観がある。このコラムのため、必要もないのに「東スポ」を買ってしまう人も多いだろう(ちなみにこの月曜版コラムの前任者は大川興業の大川総裁で、これも屈指の笑エッセイだった。『総裁は何もしない』という題名で刊行されている)。
『お笑い男の星座』は、彼らが雑誌「TVbros」に連載しているコラムが一冊にまとまったものである。『男の星座』というのは故・梶原一騎の自伝的作品で、絶筆のまま遺作になってしまったのだが、その題名を受け継いだ本書も、梶原のような侠気あふれる人士に対し、惜しみなく称賛の念を露わにしている。
(初出:「問題小説」2001年3月号)