ものに固執して周りが見えなくなった人のいかに滑稽であることか
人が惑乱する様子を「ものぐるおしい」と表現する。ここで言う「もの」とは必ずしも器物のことを指すわけではないが、何かの対象に心が囚われるさまを狂気と呼ぶ、と語義を理解すると不思議にしっくりくる。それが五感で世界を認知して生きる人の宿命なのだ。
旧ユーゴスラヴィア・ベオグラード出身の作家、ゾラン・ジヴコヴィッチ『12人の蒐集家/ティーショップ』は小説を読む快楽をとことんまで味わわせてくれる作品集である。収録作のうち「ティーショップ」は「語る」ことによって世界が増殖していくさまを見せてくれる中篇で、作中に複数の声が響いていく展開が素晴らしい。そして十二篇から成る連作「12人の蒐集家」は、一風変わったコレクションについての作品である。爪や写真、サイン、小説といった有形の「もの」から、日々、ことば、死、希望(集められるものなら集めたいものだ!)といった形の無い対象まで、さまざまな蒐集家が登場する。
しかし「もの」に執着する人々を描いた小説にしてはジヴコヴィッチの語り口は美しく、ポルカのように軽やかでさえある。たとえば「夢」の章は、一人で眠る男の夢を、ちりんちりんと鳴る電話機の音が引き裂く場面から始まる。電話をかけてきた人物は、今男が見ていたその夢を買い取りたいと申し出てくるのである。こうした情景が、現実感の失われた空気の中で描かれていく。夢の買い取り交渉という行為自体が夢であるかのように立脚点は失われ、物語は夜の空気の中に漂い出す。夢の蒐集家と男のやりとりは即興で言葉をつなげていくコメディアンのそれを思わせ、滑稽極まりない。静かな背景と時に躁状態にさえなることもある言葉のやりとりの取り合わせがジヴコヴィッチの大いなる魅力だ。
ものぐるいの小説という連想で、ジョイス・キャロル・オーツ『邪眼 うまくいかない愛をめぐる4つの中篇』の書名も上げておきたい。ノーベル文学賞に最も近い作家と呼ばれることもあるオーツは、妄執を描く作家だ。美少年を捉えて自分好みのゾンビに改造したいと願う男を主人公とする『生ける屍』(扶桑社ミステリー)が、あまりの異常さに笑いさえ込み上げてくる作品だったように、対象に囚われて均衡を失った人の心を、手を変え品を替えて浮き彫りにしていこうとするオーツの文体は、時に過剰なまでに喜劇的になる。
『邪眼』に収められた「処刑」もそんな一篇で、両親に見放された学生が実家に忍び込んで斧で二人を殺害しようと企てる話である。そんな凶悪行為を進めていきながら「ユーチューブに映る自分を想像せずにはいられない」と自己満足に浸るぼんくらぶりが読者の哄笑を誘うはずだ。暗い世界に真っ逆さまに墜ちていく楽しさよ。