芸人本書く列伝classic vol.18 立川談慶『大事なことはすべて立川談志に教わった』

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大事なことはすべて立川談志に教わった

立川談慶、1965年、長野県上田市生まれ。

おそらくは史上初の、慶應義塾大学卒という学歴を持つプロの落語家である。

前座名は立川ワコール。

故・立川談志門下には一時期奇妙な名の前座が多かったが、その中でも群を抜いて変わった名であると思う。名前の由来は、入門前に務めていた社名から。勝手に名乗ったものではなく、きちんと社長・塚本能交から許諾を得ている。上場企業の社名をそのまま使った高座名も、おそらくは史上初だろう。

その立川談慶が自身の修業時代を振り返った本が出た。

『大事なことはすべて立川談志に教わった』(KKベストセラーズ)。

談志、のところは「ししょう」と読んでもらいたい。

これは読者を選ばない本だ。それは談慶が一般企業、しかも下着メーカーのワコールという名の知れた会社に短期間ではあるが勤務した経験があることに起因している。本書の中では、立川談志の一見天衣無縫な言動が、企業人の論理で解釈されているのである。

たとえば談志の有名な言に「不合理、矛盾に耐えること。それが修業」というものがある。談志自身が前座時代に理不尽な体験を積んでおり(「明日は10時までに来い」と言われてその通りにすると「なんで9時に来なかった」と叱られる、といったことは日常茶飯事だったという)、そこから生み出された言葉である。これは言われた側からするとたまったものではない。師匠の言はどんな無理難題であっても「修業である」という理由によって正当化されるということだからだ。それが嫌ならば辞めるしかないし、そもそも談志は入門者に対し、前座修業の目標はただ1つ「俺(談志)を快適にすること」である、という明確な指標を示してもいる。

一般社会では、いくら下積み時代といってもこのような指示を受けることはない。それこそ「無理へんにゲンコツ」と書いて新弟子という相撲界ぐらいのものだろう。そして相撲界ですら現在では「かわいがり」が悪だという常識がまかり通るようになっている。

談慶は談志の言を以下のように分析する。少し長いが引用しよう。

今までいたワコールという会社は、さすが大企業らしく社員教育もシステマティックになされ、「不合理や矛盾を徹底排除」し、万事合理的に処理することを前提に仕事をしていました。新入社員だろうが、部長課長だろうが、そうしたほうが業務がはかどるからです。

なぜなら、企業は「利潤を追求する」のが根本姿勢だからです。「落語家になるということ」は、それとは正反対。まさにコペルニクス的転回をしなければならないのです。

なぜか? それは「落語の師弟関係は利潤を追求する間柄ではない」からです。むしろ「落語」という江戸時代に花ひらいた文化を体現するためには、「江戸の価値観」に近い「疑似江戸環境」に身を置かないと芸が説得力を持たないとの判断からです。(中略)

一言でいうならば、「前座」とは「現代と隔絶したコミュニティの最低辺の身分に所属する覚悟の有無を常に問われている状態」のことなのです。だから、厳しくしないと本人のためにはなりません。つまり師匠からの無理難題、「無茶ぶり」は至極当然の振る舞いなのです。

ね? わかりやすいでしょう。

こうした考え方は落語界に固有のものだが、読者に対して、自分を写す鏡としてそれを用いることを談慶は薦める。特殊から一般へ、反射を生じさせることが可能だというのである。

「落語家が大変で、サラリーマンは楽」という一般的な考え方に対して、談慶は次のような見方を提示して反論してみせる。

それは、「どこに志を置くか」に決まってくるのです。つまり、サラリーマンを「地位と身分が安定した、失敗さえしなければ定年までいられる」という「消極的存在」ととらえるか、「常に向上心を持ち続け、積極的にアイデアを提案し、必要と思われる資格の取得や自己啓発に余念がない」という「積極的存在」ととらえるかの違いです。

前者には「安定という停滞」が、後者には「不安定という躍動」がつきまといます。これは落語家とて、まったく同じです。

「大好きな師匠に真打ちとして認められた」ことを、「ゴール」ととらえるか、「スタート」ととらえるか、現状を「肯定」して安心するか、「否定」して危機感を鼓舞するかです。

1965年生まれの談慶が会社員生活を送ったのはいわゆるバブル時代であり、もちろん彼の頃より勤め人の世界は厳しいものになっている。談慶の言うような、向上心がなければ停滞するという「安定への不安」を感じる人は、20年前に比べて格段に多くなっているはずだ。ことによると本書は、芸人の世界に欠片も関心がない、会社人間にこそ読まれるべきなのかもしれない。

ただしここで少しネタをばらしてしまうと、談慶本人は「常に向上心を持ち続け、積極的にアイデアを提案し、必要と思われる資格の取得や自己啓発に余念がない」順調な修行生活を送っていたわけではない。

それどころか、1991年4月に入門してから2000年12月に二つ目に昇進するまで、談慶は9年半を要している。同じ一門で(というより現在の落語界における)前座生活最長記録を持つ立川キウイの16年には及ばないものの、やはりこれは異例の長さである。

これは前座期間の上限が定められていない落語立川流ならではの事態で、落語協会、芸術協会、円楽一門会といった他の団体ではまずこういうことは起こらない。現に立川流を破門になり円楽(先代)門下となった立川国士舘(現・三遊亭全楽)は、移籍後にすぐ二つ目となり、その2年後には真打ち昇進を果たしている。談志と円楽の考え方の違いが反映された結果で、どちらが正しいというものでもないだろう。談志門下ではそういう基準を受け入れなければならなかった、ということだ。師匠の基準は世界のすべてである。

談慶が舐めた屈辱はそれだけではない。彼には約2年遅れで入門した談笑(現。当時の高座名は談生)という弟弟子がいたが、その後輩に二つ目昇進では抜かれてしまったのである。弟弟子とはいっても談生は談慶と同い年である。彼は早稲田大学法学部卒で予備校講師経験があり、上昇志向がもともと強かった。談志についてその人となりをよく観察したことで、師匠の嗜好に合った行動を選択できたのである。付き人から解放されて自身の営業に専念していた談慶とはそこが運命の分かれ目になった。1996年7月、談生は二つ目に昇進、以来約4年間にわたって、談慶と談生の関係はねじれたものになる。

第3、4章は、その談慶の苦しい下積み時代について綴られている。おそらく本書でもっとも読者の関心を引くであろう個所だ。

苦しいのは後輩に抜かれたという事実だけではない。前座の至高の目標である、「師匠を快適にさせる」ということができない自分の頑なさが痛いのである。

立川流には、立川談幸が始めた「真打トライアル」というセレモニー的な興行の伝統があった。その興行において自身の芸を師匠・談志に認めさせ「昇進」の一言を引き出せれば勝ち、というものである。前座の身ではあったが、談慶、当時のワコールもこれに挑戦する。立川流では前座から二つ目昇進の条件として噺を50覚えていることと、歌舞音曲をこなすという前提を掲げている。二つ目挑戦のトライアルで談慶が選んだ2つの噺のうち、1つは「妾馬」だった。これには課題となっている都々逸が入る。さらに、師匠・談志が完全にはマスターできなかったタップダンスも披露する。しかも曲目は、談志が敬愛してやまない俳優フレッド・アステアが映画「イースター・パレード」で踊った「ステッピングアウト・ウィズマイベイビー」という完全なラインアップだ。

しかしすべてが終わった後、評価を待つ談慶に師匠からつきつけられたのは、昇進不可という判断だった。談慶は傷心を抱えながらも翌日、トライアル興行出演の礼を言うために談志邸を訪れる。そこで次のような言葉をかけられるのである。

何度も言うが、努力は認めてやる。俺がこっちに来いと言ってるのをお前は、その性格だからだろうが、向こうに行っちまうんだ。向こうに行っちまってるかぎり、俺は二つ目にさせるわけにはいかない。

よく覚えておけ。俺が昨日のあの場所の雰囲気でお前を二つ目にしなかったところが、俺の凄さだってことを。

かくしてすべての希望を閉ざされたように見えたワコールこと談慶が曙光を見出したのは前座ながら世帯を持った妻からつきつけられた一言だった。

稽古稽古って、稽古に溺れているだけじゃないの?

じゃあ、プライドを捨てれば? そんなのにこだわってるってことは、ほんとは(二つ目に)なりたくないんじゃない。

「小さなプライドを捨てるための大きなプライドを持とう」

それは落語家のみならず、一般社会にも通用する真実だと談慶は書く。小さなプライドを捨てることを決意した談慶は、それまではどうしても踏み出せなかった一歩を踏み出す。先に二つ目昇進を果たした弟弟子の談笑に、自分の行動の、自分の芸のどこが間違っており、師匠・談志の基準から外れているのか、教えを乞うたのである。

底を打ってからの談慶の反撃については、実際に本を読んで確かめてもらうのがいいだろう。2005年3月、立川談慶真打昇進。同年10月、立川談笑真打昇進。二つ目昇進では4年近い差をつけられた弟弟子に約半年先んじて談慶は真打になった。その副産物としてなぜか変形性膝関節症になり、さらにリハビリとして通い出したボディビルに励んだ結果「ベンチプレス120キロ」という記録の持ち主になった、という経緯についても、ぜひぜひ。落語家がなんでベンチプレスなんだよ、と疑問を持った人は特に。

この連載では芸人による自己分析、自身の体験を通じての芸談が書かれている本を毎回採り上げてきている。本書のそれは、師匠が提示した芸の入口を見つけられずにさまよい続け、大いなるまわり道をしてしまった芸人の体験談である。不器用な歩みだからこそ、その苦労と喜びが深く胸に沁みる。読み終えてからもう一度題名を見て、感慨に耽った。

『大事なことはすべて立川談志に教わった』

ちょっと感動してしまったので、みなさんにもお裾分けします。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

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