芸人本書く列伝classic vol.11 みうらじゅん『キャラ立ち民俗学』

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当初は水道橋博士編集長が本を選んで私が読んで書評、それに応える形で博士が課題書を読む、という往復書簡のような企図だったこの連載。しかし、多忙な博士に毎回その本を読む時間を取ってもらうというところに無理があった(当時は月2回刊だった)。また、博士の挙げる本の中に、自分だったらわざわざ書評しないものが含まれていたことも事実である。そういう縛りを受けて連載をやるというおもしろさも否定はしない。ただ、長続きがしないのではないか、という心配も出てきた。このみうらじゅんの本は、そんな中で自分から提案して選んだ最初だったような記憶がある(いや、千原ジュニアの本が先かも)。他にめぼしい作品が見当たらなかったのだ。みうらじゅんは芸人ではないがTVタレントの仕事もしているから、とたしか強弁して押し込んだ。このへんから連載は最初の転換期にさしかかっていたのである。

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キャラ立ち民俗学

前から思っていたのだが、みうらじゅんの絵に登場する「イヤねー」の女性(というかギャル)には名前があるのだろうか。

何を言っているのかわからないかもしれないが、もしみうらじゅんの著書を読んだことがあるならば思い出していただきたい。その作品の中には、みうらによる文章に続いて1ページのイラストが掲載されるタイプのものがあったはずだ。そのイラスト(というか1枚絵)には、必ずといっていいほどに登場するキャラクターが存在する。1人はカエルの化身といっていいような姿で描かれる「みうらじゅん」自身、そしてもう1人は画面の隅(たいてい左下)でそのカエルから顔を背け、時には頬に手を当てるなどして恥じらいや嫌悪の感情を示す女性キャラクターである。彼女はたいてい、カエル形のみうらが示している興奮状態や、男性を対象にしたエロへのアンチテーゼを示す意味で書かれている。

試みに新刊『キャラ立ち民俗学』(角川書店)からその例を紹介しよう。

たとえば「宗教と民俗学」の章。

本書収録の文章はみうらが妖怪学の専門誌「怪」に発表したものを中心としている。その巻頭に収められているのがこれだ。かつて日本には五穀豊穣や子孫繁栄を祈念するために、男女の性器をかたどったシンボルが至るところに置かれていた。道祖神などはわかりやすい例だ。現在そういうものは街角から一掃されているように見えるが、さにあらず。もっと隠蔽された形で今もリンガ(男性器)は設置されているのだという。たとえば、車止めのポールなどがそうだ。みうらはこう書いている。

何よりも(車止めの)不自然なところは棒の上部にある切れ込み。球形の先端部分と棒状の円筒部分の分かれ目にある溝だ。これは何を言わんとしているのか。

溝ではなく、まるでだぶついた皮のように表現されているものもある。

人がそれぞれであるように、リンガにもいろいろなタイプがある。

そう思って車止め、もとい確珍犯を見ていくと街はとてもデンジャラスな光景に見えてくる。(「宗教と性」)

そしてみうらの目にはあらゆる場所にご神体が見えるようになっていく。

それでも何らかの知識を得たと大満足したオレは、帰り道、自動販売機の脇で合唱する二体の神に出くわした。ドキッとして立ち止まり、じっくりそのお姿を見ると“今すぐ煩悩を捨て、我々の元にお出でなさい”と囁くではないか。これは正しく本地垂迹。ペットボトル回収容器に姿を変えて現れているのである。ああ、何ということだ。(「確珍犯と現代の土俗神」)

こうしてすべての風景が聖なる(性なる)ものに見えるようになったことを告白してこの文章は終るのだが、最後にくだんの一枚絵が置かれている。「現代の性神」と題されたその絵の中では、今や正体を露わにし始めた車止め(手書き文字で「オレの予想では石畳の下にシヴァがいる」と書かれている)を自らの巨大なリンガであるかのように抱きしめたみうらガエルとギャルが以下のような会話を交わしているのである。

みうら「子孫繁栄しない?」

ギャル「イヤねえー 形がモロで…」

また、同章の「天狗と男根崇拝」の一枚絵では、以下のような台詞がある。

みうら「テングー・ブームは降りて来る!!」

ギャル「イヤねえー テングーってヒワイで…」

一枚絵がどのようなものかは改めて説明するまでもないと思う。ちなみに「テングー」とは、ブームを起こすためにみうらが命名した「キャラ」としての天狗の名称である。

この一枚絵で注目したいのは、「イヤねー」ギャルの背後に、あたかも山の彼方から聞こえてくる山彦のように彼女の友人らしき人物の台詞が書き込まれていることだ。

第二のギャル「そこがいいんじゃない!!」

彼女は何をフォローしているのかというと、「イヤねー」と第一のギャルが言う「テングー」の生々しさである。実はこの絵の原型は「興奮するみうらガエル」→「イヤねー、と顔を背けるギャル」→「そこがいいんじゃない!! とフォローする第二のギャル」という三位一体が完成形なのだ。みうらのアンチであるギャルとそれを無責任にフォローする第二のギャル、という構図で初期は統一されていたと記憶する。いつの間にか省略が行われて第二のギャルが書かれないことのほうが多くなったわけだが、それがいつごろで、何が契機となったかは後の研究を待つ必要がある。また、二人のギャルのモデルも不明だ(記憶を頼りに書くと、第二のギャルは映画「桃尻娘」に出演した亜湖に似ている気がする。とすると第一のギャルは竹田かほりか?)。ただ、この三位一体形がみうらの的確なバランス感覚から生まれたものであることは確かである。

今紹介した『キャラ立ち民俗学』という本は、本地垂迹してこの世に姿を現した仏が、なぜか過剰にキャラ立ちしている現状を伝える第一章から始まる。第二章以降は必ずしも宗教がらみではない話題も扱われているのだが、「キャラ立ち」は全体を通しての重要なキーワードである。信仰心やもっと根源的な欲望などを叶えるために作られたシンボルが、ある段階から本来の目的を外れて意匠化が進み、図像としても極端なものになっていくのはなぜなのか、という問いを共通項として読み取ることができるからだ。その問いがみうらをしてコレクターの道に走らせている。みうらじゅんの一般的なイメージは「間抜けなもの」「余人には理解しがたいもの」を嬉々として集めている奇人ということになると思うのだが、本人の根底には「フェティシズムのフィクション化」という問題意識がある。その深部を見せず(彼が熱心な仏教徒、というか仏教芸術愛好者であることは比較的よく知られている)、マス・イメージに沿った形で自己像を披露していける器用さと狡猾さがみうらにはある。

ところで、みうらじゅんといえば欠かせないのが深夜番組「イカす! バンド天国(通称イカ天)」に導かれる形で発生したバンドブームの参加者であったという事実だ。1989年に漫画家の喜国雅彦らと結成したバンド「大島渚」で同番組に出演して話題を呼び、以降1991年までに2枚のアルバムを作成している。「イカ天」の放映時期は1990年いっぱいだから、ちょうどバンドブームの終焉までを見届けた形だ。みうらはその体験を「ガロ」連載の漫画『アイデン&ティティ』へと昇華させ、1992年に同作を単行本化する。1996年の『マリッジ』はその続篇に当たる作品だ(現在は合本で角川文庫に収録されている)。この時点でみうらは知る人ぞ知る存在だったが、一気に「文化人系芸能人」としてのイメージが拡散していく。仏像のつながりについてはまだそれほど浸透していない時期で、むしろ一般には「チャールズ・ブロンソンとボブ・ディランが好きな人」であった。

バンドブームがみうらに書かせた作品はもう1つある。1995年の『やりにげ』(4月に新潮文庫から刊行予定)だ。みうらが「やりにげ」した女の記憶をオムニバス形式で綴った短篇集で、自伝的エッセイと言われる場合もあるが、これは立派な私小説である。みうらは同じころ、仏像見学ルポ『見仏記』(いとうせいこうとの共著。現・角川文庫)と初の仏画集『お堂で逢いましょう』(弘済出版社)を出している。下ネタと仏画、俗と聖、2つのみうらが同時に世に出たのである。『見仏記』は(女性受けはしなさそうだが)読者に嫌われることはない内容だろう。しかし『やりにげ』では駄目である。台無しもいいところだ。明らかに顰蹙を買うことを目的にしてこの本は書かれている。

1995年以降のみうらの活動は、自己宣伝と自虐とが絶妙なバランスをとったものだった。

みうらは世間的に評価されかかったところで自らすべてを破壊しようとする。それはまるで、ゴールにたどりつくのを嫌がっているようにさえ見えるほどなのである。

みうらの造語「マイブーム」が新語・流行語大賞にランクインするのは1997年のことだ。同年以降みうらは〈マイブーム〉シリーズの著書以外にも『ボク宝』(1997年。現・光文社文庫)『カスハガの世界』『いやげ物』(共に1998年。現・ちくま文庫)『とんまつりJAPAN』(2000年。現・集英社文庫)といった蒐集物を他者に提示するという趣向の本を連発し、「マイブームの人」としての地位を確立していく。その際たるものが2004年に刊行した『ゆるキャラ大図鑑』(扶桑社)だろう。「ゆるキャラ」は、『広辞苑』入りした「マイブーム」と並ぶみうらの「流行語」でもある(この言葉が現在、「地方振興」を商売にしている広告代理店においしく使われていることは周知のとおり)。さらに2004年には『アイデン&ティティ』が田口トモロヲ監督で映画化され、みうらは同作で翌年、日本映画批評家大賞功労賞も受賞する。

明らかにあのころのみうらは上昇気流に乗っており、人気の商品としても「仕上がり」だしていた。だが、その絶頂期ともいえる2004年にみうらは自伝的小説『色即ぜねれいしょん』(現・光文社文庫)を発表する。そこで語られているエピソードは、童貞の高校生3人が「そこにいけばフリーセックスがある」と闇雲に信じ込み隠岐島を目指すという情けない物語である。またしても「非モテ系」。これもまた、アガリ行きのベルトコンベアに乗ってしまっているという雰囲気を察知したみうらが自己破壊のために書いた作品であろう。イメージが固定してしまいそうになった途端に下ネタでトップから自ら降りようとする。その行動に私は、センスの良さを感じざるをえないのである。みうらはまた、マスメディアと広告代理店を相手にしながらも、わかりやすい地平には決して降りていこうとしない。もしかすると彼は、現在最高の「メディア芸人」と呼ぶべき存在なのではないだろうか。

世間は画一化されたものが大好きだ。現役なら現役、元なら元といった具合に文化人タレントにも一定数の座席が準備されている。役割に沿って喋ってくれる、わかりやすい存在が好まれるからである。しかしみうらは、準備された椅子に座り続けることを好まないのだ。そこにいれば大金を稼げることがとわかっているにも関わらず、あえて降りてしまう。あるいは自分で望まれていないポストを準備し、それを買わないかとメディアに営業してみせる。みうらが売ろうとしているものにはわかりやすいエロ(谷ナオミやエロスクラップ)とわかりにくいエロ(フェテッシュ。仏像や天狗などに代表されるシンボルや図像)が含まれているため一般化は難しいのだが、それをあえて推し続けるのである。広告代理店がみうらから盗めるものは「ゆるキャラ」のような、ごく一部のイメージだけだ。そしてそれが商業的に成功し過ぎそうになると、みうらは露悪的かつ非モテ的な作品を放ち、顰蹙を買ってマイナーの側に逃亡しようとする。こうした形で生きることによって、すべてを消費されることを拒んでいるのだ。

みうらじゅんになりたい「メディア芸人」は多いはずである。だが、みうらじゅんになれる人間はごくわずかだ。たいていは単に「イヤねー」と顰蹙を買ったところで消えてしまうだろう。「そこがいいんじゃない!!」とフォローしてくれる者がいて、はじめて本当のみうらじゅん運動は完成する。三位一体の芸を盗める者は果たして現れるのだろうか。我こそは、と思う者はぜひ新刊『キャラ立ち民俗学』を読んで研究してもらいたい。

ついでに書いておくと、ほぼ同時期に『色即ぜねれいしょん』の続篇に当たる『セックス、ドリンク、ロックンロール』(光文社)も刊行されている。童貞が初対面の女とベッドインしたあげく、何もできずに寝小便をして逃げ出すという場面から始まる、これまた素敵な非モテ小説だ。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

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