『男子のための』とあるが、いつまでも親子が対話を絶やさずにいるにはどうしたらいいか、ということについて書かれた本だ。すべての人に読んでもらいたい。
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杉江松恋のチミの犠牲はムダにしない!
第17回「男子のための人生のルール」玉袋筋太郎(理論社)
前三回の更新では、赤塚不二夫に北方謙三と肝の据わった男の著書を続けて取り上げてきた。そこで今回は、お二人のようなびしっと筋の通った生き方をするための教本を紹介しようと思う。玉袋筋太郎『男子のための人生のルール』、これ以上筋の通った名前はないという著者は、ご存じのとおり浅草キッドの大きい方、ボケ担当の漫才師である。ビートたけしに憧れて軍団入りしたはいいものの、修業のため浅草フランス座に島流しになり、年俸三十六万円という不法入国のイラン人以下の苛酷な労働条件で雑用係としてこき使われるという現代ではありえない『蟹工船』生活を体験した、「筋」金入りの苦労人である。そんな玉袋が、全世界の中坊男子に向けて書いた本なのだ。
この本の素敵なところは、自分が自分がと自己主張してしまいがちな思春期の心を、他人とのかかわりにおいて見つめ直してみよう、と提案する姿勢にある。それを最も象徴的に表している言葉が「心の包茎こそ、根元までむけ!」という「ルール」である。この稿をお読みいただいている中には当然女子も多数いらっしゃるだろうが、女子のみなさんが思う以上に、包茎であるかそうでないかということは男子の重要時なのである。特に中学生のころなどは、ムケているかいないかでクラス内のステータスが決定するほどだった。桑田圭祐の著書に『たかが歌詞じゃねえか、こんなもん』という題名があるが、「たかが皮じゃねえか、こんなもん」と己れの皮かむりを級友に告白できる者は、私の中学時代には皆無に等しかった。他の国民と比べても日本人には包茎が多いというから、口では「俺、ムケてるもん」と見栄を張っておきながらその実は……という青春の嘘をついてしまった男子の数は、相当のものだったはずだ。だからこそ、現在も多くの男性雑誌に包茎手術の広告が山ほど掲載されているのである。
自らの皮かむりを口に出せず悶々と白いブリーフを濡らす。それが心の包茎状態である。誰でもコンプレックスはあるし、隠したくなるものだが、それをあえてさらけ出すことに意味がある。「隠す」のではなく「向き合う」のである。それが心の包茎をむくことであると玉袋は言う。
思い返していただきたい。北方謙三氏が『試みの地平線』で、聞かれもしないのにおのれの仮性包茎をカミングアウトしていたことを。わが尊敬する赤塚不二夫先生も、「週刊少年マガジン」の赤塚番記者、五十嵐隆夫氏と包皮を介した交わりを持っていたことを告白されている。酔っ払った際、二人のジュニアをドッキングさせるという荒行に臨んだそうなのだ。曰く「あのさ、こいつさ(五十嵐記者)、仮性包茎なの。それでね、オレとねチンポコがつながるの。皮かぶせると」。残念ながら赤塚先生が包茎であるか否かの情報は記されていないが、これだけ赤裸々に下半身事情を語られれば、もはやそれはどうでもいいだろう。北方、赤塚両氏とも心の包茎はズルむけであった!
自分のコンプレックスに向き合うことが大事なのは、他人が抱えているコンプレックスにも自然に振る舞うことができるからだ。「オレの包茎を笑わなかったから、キミの脱腸も笑わない」(今回下ネタばかりですいません)、友だちづきあいをする上でこれよりも大事なルールは他にないだろう。他人との距離感がとれない、場の空気が読めない、いつの間にか一人だけ浮き上がっている、そうした悩みを持つ人は一旦自分の「心の包茎」を疑ってみるべきだと思う。
本書では、さまざまなルールがこの原則から派生して語られていく。「仲間の中で、自分の得意な役割を見つけろ!」なんていうのもそうだ。
――役割っていってもアレだよ、「じゃあちょっと、バイク盗んじゃおうぜ」「おう、俺は見張りをするよ」って、そんな付き合いの「役割分担」ってことじゃないからね。
絵が上手で「マンガのこのキャラクターお願い」って言ったら描いてくれるとか、いつもおもしろい遊びを考えつくとか、誰よりも早くエロ本を持ってて気前よく貸してくれるとか(中略)性格も違えば得意技も違う者どうしが集まって、イヤなことを無理強いさせるわけでもなく、お互い「おまえのこれはすごいな」「おまえこそ、これが得意じゃないか」なんてリスペクトしあえる何かをもって、友だちをやるっていうこと。
凄いのは、こんな大事な真理を「エロ本」なんて卑近な例に引き寄せて見事に語っている点である。たとえば、人生における「我慢」の効用なども実に納得のいくロジックで語られている。人生においては溜めの時期、じっと我慢して将来のために備えるときというのが必要なものなのだが、もちろん「我慢」は誰でも嫌なものだ。特に時間がないと焦っている十代にとっては「我慢」の押しつけなどは、言語道断のファシズムとしか思えないはずである。そこで玉袋は言うのだ。
――オナニー我慢。
この本を読んでいるキミがちょうど十四歳だったとして、そのくらいの男子って、どうせほぼ毎日オナニーしてるだろ。だったら、それをちょっとこう、我慢してみよう。(中略)
どんだけオナニーを我慢できるかって試してみるのはおもしろいと思うし、運が良ければ夢精できるかもしれない。夢精、最高だよ。もう体がひっくり返るくらい、自分で毎日小出しに出してるよりもはるかに空前絶後な、タメにタメて出す(勝手に出る)気持ちよさったらないんだから。
えー、女子のみなさんはあまりご存じないと思いますが、男子は意外と夢精を体験していないものなのである。会社のランチタイムとかで同僚に聞いてみるといいよ。夢精を報酬にしての「我慢」のススメ。男子ならば誰もが深く納得するはずである(ホント今回は下ネタばかりですいません)。ちなみに私は生涯で一回しか夢精を体験したことがない。それも風邪で高熱を出しているときで、夢うつつのうちに終わってしまったため、あまり実感が湧かなかった(そのとき見ていた夢は、全日本女子プロレスに来ていたデビー・マレンコ選手が、全裸で平泳ぎをしているというものでした)。私も玉ちゃんの言うとおり、もう少ししておけばよかったなあ、オナニー我慢。
オナニーの話はまだまだ続く。自分のやりたいことがない、わからないという男子にもオナニー尽くしで理を説くのである。
――畳みかけて聞くけど、チンチンいじるその先には何がある? って話なんだ。暗がりでさ、あー、やりてぇな、いい女とやれればいいな、いい女と付き合えるようになるためにはどうすればいいんだろうな、そうか、いい男に自分がなればいいのか、えー、いい男ってのはどんな男だ? 仕事ができる男になればいいのかな……ってさ、キミがいじっているチンポが、自然と答えを導いてくれるじゃないか。
オナニーを勧める本なんて、息子に読ませるのは嫌だって? とんでもない。そういう本だからこそ、息子に読ませたいんじゃないか。どうせならオナニーだって、だらだらといじるだけじゃなくて、前向きな気持ちでしてもらいたいじゃないですか。『男子のための人生のルール』は、実は自分の息子との距離感の取り方がわからない、親御さんにも読んでもらいたい本なのである。最後の第五章は、親と子の関わり方について書いてある。子を持つ親は、ぜひここだけでも読んでみてもらいたい。「期待は裏切ってもいいけど、親の「信頼」は裏切っちゃだめだな」「親は、子どもの変化を見抜くため体をちゃんと見なくちゃ、って思うんだ」「ひどい親、いちばん嫌いな大人のために、自分の人生を棒に振るなよ」、あなたが人の親ならば、そうした言葉の一つ一つに深く頷けるはずである。
私は、玉袋筋太郎という芸人について不思議に思っていたことが一つあった。初期のころ、玉袋はホモのキャラクターを売り物にしていた。一九九二年に刊行された『浅草キッドの芸能界地獄の問題集』(青心社)所収の漫才「クロマティの卒業」にもしっかりとそのネタが入っている。私はライブを定点観測しているタイプの熱心な演芸マニアではないので正確なことが言えないのだが、いつの間にか玉袋はホモを演じるのを止めていたのである。そのことを知って、私は思った。
なんだ、営業ホモだったのか。
そしてちょっとだけ残念になったのである(自分がホモというわけでもないのに)。しかし玉袋のホモネタは、単に受けをとるためのものではなかった。もっと深い理由のものだったのだ。
玉袋の父親は麻雀店を営んでいたが、商売が左前になり、ゲイバーの営業を始めたのである。パパがママになっちゃったのだ。玉袋筋太郎、中学二年のときの出来事である。多感な時期であった。当然のことながら、それが重いコンプレックスになった。父親ともほとんど口をきかない断絶状態になったという。玉袋がコンプレックスを拭い取り、心の包茎をむききれたのは芸人となった後だった。自らをホモとして売り出し、両親の商売を漫才のネタにして客に笑ってもらうことで、それを恥じる気持ちを解消することができたのである。ホモキャラ、ホモネタは、どうしても体験しておかなければならない禊だったのだ。しかし、その心境に達したとき、玉袋の父親はすでに他界していた。その亡き父親に対する思いが、本書を執筆する原動力となっているのだろう。あのとき営業ホモなんて思ってごめんな、玉ちゃん。
本書のあとがきは、以下のような言葉でしめくくられている。
――最後の最後、読者の方には申し訳ないが勝手させてもらうよ。
この本を出すにあたってどうしても言いたかったことだけ書かせてくれ。
「こうしてこの本を出せることになったのも、お父さんのおかげだよ。もう、死んじまったけど男としてオレを作ってくれなけりや、この本、出せなかったよ! ほんとうにありがとう!」
これで、ようやくオレと親父の帳尻が合ったかな。
(本書のお買い得度)
この本が定価千二百円で買えるというのは、信じられないくらいお徳だと思う。まず、父親(母親でもいい)であるあなたが買って読むでしょう。そして息子にやる。息子はお年頃になるころに読んで、自分が親になる年になったらまた読む。そうやって代々読み継がれていく本じゃないかと思うのだ。五月飾りの人形どころじゃないよ。下手をしたら孫子の代まで受け継がれるもの。人形の久月でちょっと奮発して「ワダエミ監修南蛮甲冑王者胴丸飾り」定価二十八万三千五百円を買ったつもりで、この本を十冊買え! そして周囲の親たちにも配っちゃえ!
初出:「ゲッツ板谷web」2007年4 月23日