翻訳ミステリーマストリード補遺(49/100) ピーター・ディキンスン『生ける屍』

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翻訳ミステリー大賞シンジケートの人気企画「必読!ミステリー塾」が最終コーナーを回ったのを記念して、勧進元である杉江松恋の「ひとこと」をこちらにも再掲する。興味を持っていただけたら、ぜひ「必読!ミステリー塾」の畠山志津佳・加藤篁両氏の読解もお試しあれ。

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ピーター・ディキンスンの長篇デビュー作は1968年に発表された『ガラス箱の蟻』でした。現地ではすでに社会の一単位を構成することができなくなった部族がニューギニアからロンドンのアパートに引っ越し、生まれ故郷とはかけ離れた環境で無為の日々を送っている、という状況設定がまず目を惹きます。この部族が絶滅に追いやられたのは旧日本軍の侵略が原因なのですが、彼らを「ガラス箱の蟻」のように標本化している英国人も、もちろん賛美の対象にはなっていません。自国文化中心主義がさりげなくどころか、かなりわかりやすく駄目出しされているわけで、その中で起きる殺人事件は、読者を注目させるために状況を切り裂いて、断面図を作り出す働きをしています。

第二長篇の『英雄の誇り』は、上流階級のスノビズムをこれでもかというように笑いのめした内容であり、カリカチュアライズの技法は第一作よりもわかりやすい。この二作でディキンスンはCWAゴールドダガーを同時受賞していますが、高評価を与えられた理由の一つはこの諷刺小説的な構造にあったとみて間違いないでしょう。

以降のディキンスンは現実をたやすく飛び越えるような設定も駆使するようになり、現在で言うところのクロスオーバー作家になっていきます。土台にあるのは文明批判の姿勢で、奇跡的に復刊された本書、『生ける屍』にしても、第一作から共通して彼が提示し続けてきた自国文化中心主義への批判的な姿勢、資本主義が世の正義であるどころか、時には悪魔の側に手を貸すことが正当化してしまうことが物語の中で示されます。

英国ミステリーにはディキンスンのように、自分たちの拠って立つものを皮肉な目で眺め、相対化することから何かを生み出そうとするものの系譜があります。諷刺小説とミステリーの相関を考える上でディキンスンは最重要作家といえるでしょう。ミステリー評論の用語を使って言えば、ディキンスンはもちろん奇想作家であります。奇想ミステリーの中には、特殊状況を作り出すことによってその作中でしか通用しない論理を成立させ、読者に驚きのある推理を提供するというものがあります。もちろんそうしたタイプの作家として読むことも可能です。デビュー作発表から50年、その間に世界は、真実を暴いたからといって正義が貫かれるとは限らない、おそろしくへんてこなものに変貌を遂げています。そうした時代の先取りをした作家として、今後さらにディキンスンの再評価は進んでいくはずです。

『生ける屍』を畠山・加藤両氏はこう読んだ。

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