小説の問題vol.50「ブームの中へ/中で/そして外へ」 大槻ケンヂ『リンダリンダラバーソール』・稲見一良『花見川のハック』

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リンダリンダラバーソール (新潮文庫)遺作集 花見川のハック (角川文庫)

『非在』(角川書店)というミステリーを読んだ。横溝正史ミステリー大賞優秀賞作家鳥飼否宇の長篇第二作だ。なかなかいい小説だが、中にこんなくだりがあって驚いた。ある人物が湯船で死体となって発見されるが、それを聞いた男が、

「江戸アケミのごとね」

と言うのだ。おいおい、「じゃがたら」のボーカリストだった江戸が風呂で頓死したことなんか、今の読者の何割が覚えているんだい、と思った。「じゃがたら」は八〇年代に最も急進的だったバンドで、九〇年の江戸の死によって活動休止した。ずいぶん昔のことのように思えるが、まだ十年ちょっと前の話にすぎないのか。

ニュー・ミュージックがJ・POPになる以前、ロックはロックとして別次元の存在だった。それがバンドブームという仕掛けによってJ・POPの中に呑みこまれていったのが八〇年代の終わりから九〇年代前半にかけてだっただろう。『リンダリンダラバーソウル』は、その時代をロックバンド「筋肉少女帯」の大槻ケンヂとして駆け抜けていった作者の自伝的小説である。いや、大槻ケンヂは今でも大槻ケンヂだが。

ちょっと話はそれるが、今や私小説の正統は、『ダディ』『ふたり』(幻冬舎)のような「タレント本」の中に受け継がれているのだ、と「皮肉まじりに」喝破したのは『読者は踊る』(ちくま文庫)の斎藤美奈子である。もちろんこれは、かつて小説が文豪のものだった時代に比べ、タレントとしての小説家の価値が暴落したことにより、小説家の「私」を切り売りすることが商売として成立しなくなったために起きた現象である。誤解を恐れずに言えば、今をときめくあの人だって、文学村の外では小説家というより、「小説家としてのタレント」性で重宝されているのである。そうでしょう? そのくらい今のお客はいやな客なのである。

こんなことを言い出したのは、小説家・大槻ケンヂを揶揄するためではない。『リンダリンダラバーソウル』は、「定型」を踏まえた青春小説だが、過去の大槻作品からは格段の進歩を遂げた小説である。読者に完読を強いることが許される、きちんとした小説といおう。

同じ作者の『グミ・チョコレート・パイン』三部作(角川文庫。現在最終篇にあたる『パイン篇』が連載開始している)と比較するのがわかりやすいだろう。ほかにとりえもないくせに自意識だけが肥大し、俺たちには「特別な才能」があると信じ込んでいる(というより自分を欺瞞している)高校生たちを主人公にしたこの小説は、エピグラフに、「『オレはダメだな~』と思っている総ての若きボンクラ野郎どもへ」とあるように、ある年代を中心読者として前提した作品だ。したがって、使われているのは「若きボンクラ野郎ども」の言語なのであり、彼らの世界観なのである(小説はいきなり自涜場面から始まる)。作者が気を悪くするかもしれない表現で言えば、「マーケティング」されている。読者と主人公と作者が溶け合いすぎている。

逆に、『リンダリンダラバーソウル』を小説たらしめているものは、高低差の激しい構図の取り方、そして小説家と主人公の距離に他ならない。

「バンドブーム、について書いてみようと思うのだ」という妙にかしこまった書き出しから過去に溯り、最終章の「文豪ボースカ」を演奏する「筋肉少女帯」解散後の主人公に至る。その過程の中で、時に現代の立場から鳥瞰的にブームを眺め、時にブームの底でうごめく虫の視線で世界を見上げる、その高低差が人生における時間の厚みを演出するのだ。

また、主人公大槻ケンヂの肩の少し後ろのあたりにいつもいる、作者大槻ケンヂの視点も冷静で安定しており(すなわち読者に媚びることも少なく)、語り手の地位を安泰にしている。読者が、六六ページから二〇三ページに主人公と恋人コマコの物語が飛ぶことを許すのは、この語り手の安定感のゆえである(余談ながら、このエピソードは、椎名誠『哀愁の街に霧が降るのだ』によく似ている。)。

また話はそれるが、バンドブームによって音楽界に「努力次第で誰もがデビューできる」という幻想が成立していく過程は、それより十年前の村上龍のデビューによって成立した「誰もが作家になれる」という意識革命とそれに続く新人作家デビューラッシュの構図を思わせる。もっとありていに言えば、その幻想性は同一のものだろう。渡部直己はこういった風潮の中で文学ヒエラルキーにすり寄って定型的に生産される「文学」のことを「《電通》文学」と読んだが、音楽界では「《電通》音楽」と呼んでいっこうに差し支えのない状況があったのである。

大槻の小説は、外形酷似した《電通》音楽の世界を描くことで、そのまま《電通》文学の輪郭をなぞることにもなっており、その点も小説をおもしろくしている理由の一つである。ただしこれには先駆者がいる。『悪魔の下回り』(新潮文庫)を書いた小林信彦だ。

『リンダリンダラバーソウル』とて、定型から逃れた作品ではない。だが(あえて言おう)商業主義の中で、幻想としてのヒエラルキーを植え付けられ、定型的な商品の送り手として奉仕することを強いられる中で、水面下でもがきながらも水上へと顔を突き出そうとする主人公(たち)の姿を描くことにより、わずかながらも不透明な状況の襞を切り裂くことに成功しているのである。先述した「文豪ボースカ」の場面「しのごの言ってんじゃないよバンドマン!」に続く主人公の台詞は、この小説の中でもっとも美しい煌きをもった言葉である。「今が最高だと言えるようにしようぜ」とは、たしか江戸アケミの言葉ではなかったかなあ。こういう作品を里程標として築きながら、また少しまた少しと小説は前進していくのだ。それしか前進するすべはないのだ。

では、その状況を突き破って実際に飛んでしまった作家は誰か、ということになると、実際には名前を挙げづらい。自分を包む殻、無意識の脅迫を克服し、真の意味で自分のものと呼べる作品を書いた作家といえば、故人の名前を出すのは卑怯かもしれないが、稲見一良をおいて他にはないのではないかと思う。

稲見一良、一九三一年生まれ。八四年に肝臓癌の宣告を受け、九四年に没した。山本周五郎賞を受賞した『ダック・コール』(ハヤカワ文庫JA)をはじめ、著作数は十冊ほどにすぎず、また本格的な作家活動も癌宣告後の十年間に限られたこともあり、客観的には決して恵まれた作家ではなかった。だが、稲見の小説はその量的不足を補って余りあるだけの質の充実がある。遺作集となった『花見川のハック』を見よ。

稲見の小説は、冒険小説(『ソー・ザップ』角川文庫)、ハードボイルド(『猟犬探偵』新潮文庫)、メルヒェン(『男は旗』新潮文庫)と、さまざまな分野にまたがっていたが(それを適宜書き分けるだけの時間的余裕が無かったことも事実だろう)、徹底して貫かれていたのは、一人前の大人が持つべき矜持を持って小説を書くこと。そして、ロマンチシズムの持つ力を忘れず、それを表明することを畏れないことだった。

こうして書くと、稲見作品に触れたことのない読者の中には、ありきたりの男流ロマンス作家を思い浮かべる向きもあるかもしれない。だが、決定的な違いがあった。小説としての地力の確かさだ。『花見川のハック』表題作の幕切れを見てほしい。リアリズムを飛び越え、マジック・リアリズムとも言うべき、夢の結末が訪れるのはなぜなのだろうか。同作品で、作者がこよなく愛した千葉県の花見川の風景が、どこにもありえない詩情の漂うものとして描かれているのはなぜなのだろうか。稲見は目で切り取った景色から手垢のついたイメージを外し、己の定規を当てなおす技術に長けた作家だった。稲見の魔術は文章の異化作用にあったのである。そのことは例えば、「焚火」(新潮文庫『セントメリーのリボン』所収)などの作品を見ればよくわかるはずである。

「ここ」を、「どこか」に変えるために、稲見は晩年の十年という時間を使いきったように思われる。「本物の作家」という言い方は嫌らしいが、稲見に限っては偽物にならない表現なのだ。

(初出:「問題小説」2002年5月号)

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