幽の書評vol.2 つり人出版部編『水辺の怪談2』・小池真理子『夜は満ちる』

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先般、KADOKAWAから刊行されている日本で唯一の怪談専門文芸誌「幽」が休刊し、同社の妖怪専門誌「怪」と合併して「怪と幽」として再出発することが発表された。30号をもって幕を閉じた同誌には、私は創刊以来ずっと書評を寄稿していたのである。多くの雑誌で連載を持ってきたが、創刊から休刊まで通してというのはたぶん「幽」が初めてだ。思い入れの強い雑誌でもあり、これからしばらく同誌に寄稿した書評を再掲していきたいと思う。

と書いておきながらなんだが、vol.2からの開始である。なぜだ。創刊号に寄稿したはずの書評が、いくら探しても見つからなかったからである。そんないい加減な。いや、見つからないものは仕方ないじゃないか。諦めようよ。

もしかすると記憶違いで、書評を寄稿し始めたのは第二号からなのかもしれない。現物が出てこないので何もはっきりしたことは言えないのだが。どうやらバックナンバーを処分してしまったようなのだ。もしかすると連載していたというのも勘違いで、勝手に編集部に原稿を送りつけていただけなのかもしれない。いや、「幽」という雑誌も本当は、などと妄想を逞しくしても仕方ない。「幽」はありまあす。いや、ありました。もうすぐ「怪と幽」にして再出発します。そちらにも寄稿の予定はあるので、書店で見かけたら覗いてみていただきたい。

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海で、山で、湖で、十九人の釣り人が遭遇したこの世ならぬ怪異の数々を生々しく語る。

水辺の怪談〈2〉釣り人は見た

――鐘がドンと鳴ァりゃあ。

とくれば、故・三代目春風亭柳好の十八番「野ざらし」の一節だ。釣り人が河原で見つけた人骨に手向けの酒をかけてやったところ、その夜に美女の幽霊が返礼に訪ねてくるというこの噺、落語ファンには有名なものである。

なぜ骨を供養してやるのは釣り人なのか。最大の釣果が期待できる、マヅメの時間帯は、朝夕の薄明のころだという釣り人の常識がある。これはすなわち、たそがれどきであり、かはたれどきということだ。つまり釣り人というのは、幽明の境がもっとも怪しくなったときに、好んで河川や岩礁といった淋しい場所に行きたがる種族なのである。しかも釣果を独占するため、抜け駆けをしたがる傾向もある。怪異に遭遇すべき条件は揃っているといえるだろう。

釣りの専門誌「つり人」は、毎年夏季限定の企画として、釣り人が遭遇した怪談を特集している。『水辺の怪談2』は、九九年以降同企画に掲載された怪談を単行本化したものである。

十九の体験記が収められているが、海の体験が四つであるのに対し、川・湖の体験が十五と、圧倒的に後者が多い。それも渓流やダム湖など山間の体験が目立つのである。山中を神域とする純粋な山岳信仰はすでに過去のもののはずだが、山中に分け入って殺生の娯楽に興じることについて、今でも禁忌観は残っているのだろう。

そうした禁忌に対する罪悪感は、死者の平穏を乱したことによる霊障という形で体験談の中に現れてくる。たとえば、ため池に人柱として沈められた女性に釣り人が呼ばれる「あの世に引きずり込まれる!!」のように。小泉八雲「むじな」の原型となった「置いてけ堀」は、お留め池のような殺生禁断の場所での釣りという行為が処罰される話であるが、現代の禁忌はこうした形で機能するようである。

おもしろいことに、釣り場ではなく、釣りのための宿をとっただけでも霊に障ることになるらしい。「沈む渡り廊下」のエピソードでは、怪異に遭遇するのは旅館の一隅である。そこは台風による洪水のため、多くの人命が失われた場所だという説明が添えられている。

廃村や古戦場も人々の怨念を残した場所として意識されているらしい。「鎧兜の大男の霊」の、釣行の最中に突如甲冑の武者が登場するというエピソードは、唐突な印象もあって不気味である。山中なのだから、登場すべき怪異は他にいくらでもありそうな気がするのだが、歴史的な事物としてまず鎧武者を思い浮かべるというように、過去に対するイメージが貧弱化したための現象なのかもしれない。さらに時代が降れば、武者の出現さえ怪しくなってくるはずである。そうしたとき釣り人の前に現れるのは、一体何者だろうか。

瞬時にこの世をあの世に転じさせる幻視。官能の調べが誘う先には、いかなる異界の扉が待つのか。

夜は満ちる (集英社文庫)

怪異は、語り手が存在して初めて「怪談」として成立する。小池真理子『夜は満ちる』が傑出しているのは、各話の語り手が日常から怪異の側に落ちる瞬間が存在するのに、それを読者がまったく予測できないからだ。これは、女性の視点から語られる七つの怪異小説集である。

巻頭の「やまざくら」はこんな話だ。田舎町に隠棲する主人公は、かつて東京の病院で働きながら、院長と不倫の関係を結んでいた。その院長の妻が亡くなり、葬儀のため彼女は東京へと戻ってくる。

筋立ては平凡な不倫の物語のようだ。しかしそれが幻想譚に変化する瞬間がある。異界の扉が突如出現し、読者を飲み込むのだ。そのときから語り手も異界の人に転じる。変化が最も鮮やかなのは、「坂の上の家」だ。

翻訳者の〈私〉が住む家は長い坂の上に建っている。わざわざ坂を上りつめてやって来る人など、そういるはずもないはずなのに、なぜか〈私〉は家を覗き込む視線を絶えず感じていた。ある日、〈私〉は、亡母の遺したドールハウスを発見する。それは、父との離婚によって精神を病んだ母が、箱庭療法のために作ったもので、〈私〉の家の精巧なミニチュアだった――。

この小説は『夜は満ちる』という作品集を象徴するような短篇で、ラスト数行の急転が実に鮮やかである。主人公があまりに速やかに異界の側に落ちるので、読者が世界の反転する瞬間を見極めることは難しいほどなのだ。

こうした異界へ接近する感覚を、幻視と呼んで差し支えないだろう。作者の母は、この世ならぬものが見える人であり、作者に対してそうした怪異を語ることが日常であったという。その体験が本書の中に息づいている。先に挙げた「坂の上の家」をはじめ、「イツカ逢エル……」など、主人公とその母との関係が重要である作品が多く収録されているのは、そのことと無関係ではないだろう。

また、表題作や「康平の背中」などの作品からは、作者を支配する原理が見出せる。人間にとってもっとも強く、根深い情動である官能への畏怖である。ここで挙げた作品では、官能に対する妄執が登場人物を現実から異界の方へ押しやる原動力になっているのだ。小池は『無伴奏』(集英社文庫)などの非幻想小説分野の代表作で官能を対象として扱っているが、幻想譚においてもそれは重要なモチーフである。本書に先立つ九六年に発表された短篇集『水無月の墓』(新潮文庫)他の作品群からもそのことは読み取ることができる。

性の法悦は、人を超常の高みにまで官能を押し上げることがある。ただしそこで見えるのは、もしかすると未知のものが潜む異界の扉なのかもしれないのだ。そうした畏怖の念が、艶かしい物語の外観の下に隠されているのである。

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