芸人本書く列伝classic vol.46 新倉典生『正楽三代 寄席紙切り百年』

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正楽三代 ー寄席紙切り百年

寄席に行くと15~20分の持ち時間をもらってさまざまな芸人が出てくる。落語家以外の芸人を色物と呼ぶが、その色物と落語家が上手い具合に配置されて登場する。必ず決まっているのは膝代わりだ。中入り後に最初に出てくるのが「喰い付き」、その後一人「膝前」を挟んだりなかったりもするが「トリ」を務める落語家の前に登場するのが「膝代わり」の芸人だ。ここは必ず色物の芸人の出番となる。

本職の落語家にお聴きしたが、膝前を務められるようになれば一人前なのだという。あくまでも客席のお目当てはトリであり、そこにつなげられるように会場の空気を作っていかなければいけない。自分だけが悪目立ちして掻き回すだけ掻き回して帰っていくなどは下の下の芸人のやることで、まずそういう人間は膝前には配置されないという。しかし、どんなに膝前がヘマをしても大丈夫。膝代わりの色物が空気を受け止め、和ませ、よい具合に鎮めつつも温めて、おあとの真打に繋いでくれるからだ。音曲師の故・柳家小半治は、3代・4代・5代(先代)と、三代の柳家小さんの膝を務めたのが自慢であったという。現在で言えば、三代目となる林家正楽がその筆頭の芸人である。

ご存じない方のために書いておくと、正楽は紙切り芸人である。白い紙と鋏を持参して高座に現れ、客の注文に応じてお題を切り抜く。どんな無理な注文をされても「切れません」とは言わないのが芸人の矜持で、即興でこなしてしまうのが腕というものである。最初に「鋏試し」と言って「藤娘」などの定番のお題を切って見せるのがお決まりになっていて、これは手を上げた客がもらえる。正楽は鋏と白い紙の他に黒い台紙を持って現れるが、これに切り出した本体(ポジ)の他に、背景となった紙(ネガ)を挟んで見せると、白黒反転した同じ図柄が出てくる趣向である。慣れた題材だと一筆書きのように切り抜けるので、そういうことができるのだ。鋏試しを終え、次の題材をすでに切り始めている正楽は、ポジとネガを受け取った客に言う。

「お帰りになったら、黒か赤の台紙に入れてご覧になってください。間違っても白の上には置かないように。何も見えなくなってしまいますので」

この軽妙な芸は現在3代にわたって継承されている。初代林家正楽(1895~1966)は、1916年に5代目柳亭小燕枝(後の6代目林家正蔵)に落語家として入門、二つ目まで昇進して睦月家林蔵を名乗ったが、やがて余興で披露した紙切りに活路を見出し、1919年に転向を果たす。関東大震災後の1924年、真打に昇進して初代の紙切り林家正楽を名乗る。

2代目正楽(1935~1998)が初代に弟子入りしたのは1956年のことである。最初は落語家志望で、8代目林家正蔵の門下にいた。初代と2代目が、同じ名前を持つ真打の6代目と8代目の門下にいたことになる。1957年に二つ目に昇進して林家小正楽、初代の死後、1968年に二代目を襲名している。

3代目、現在の林家正楽(1948~)は1966年に小正楽時代の2代目に入門、1970年に一楽を名乗って初高座を務めた後、1988年に2代目小正楽、そして師匠の死後、2000年に3代目を襲名した。

新倉典生『正楽三代 寄席紙切り百年』(dZERO)は、この林家正楽一門の代々についての評伝である。著者は日蓮宗の僧正で東京都足立区にある善立寺の住職を務めている。そういう人物がなぜと思うが、新倉が本書を著した背景には奇縁があった。初代林家正楽には2人の子供がいたが、1人は戦死、1人は養子に出してしまい家は途絶えている。養子となった人物と知遇を得る機会があり、新倉は時折訪ねては初代正楽の月旦などを聞かされていた。その人物から初代正楽の菩提を弔うことを依頼され、貴重な資料の数々を受け継いだのだという。本書には付録として「寄席・色物」という文章が収められているが、これは初代正楽が読売新聞夕刊の「よみうり演芸館」コーナーに1959年1月6日から連載したものである。初代は筆が立ち、紙切り芸人として精進するかたわら、新作落語の執筆も行っていた。現在も口演されることの多い「秋刀魚火事」は、この人の作品だ。この「寄席・色物」も巧みな筆致で記されており、書き手の力量は明らかである。当時の色物芸人について書かれた文章は極めて少なく、これは貴重な一級資料でもあるのだ。

同じ名前を持っているとは言っても、当たり前だが代々で人物はまったく違う。新倉は各人に1章ずつを割き、それぞれの人物評を行っている。

初代の正楽の肖像は、紙切りという芸にふさわしく、孤高を感じさせるものだ。は気難しいという評判があったらしく、楽屋における人望は高くなかった。しかしそれは自分にも他人にも等しく厳しさを求める気質ゆえだったのである。二代目正楽こと林家正作が弟子入りした際には、盟友林家正蔵の頼みといえども甘い顔はしなかった。

――朝、(正作が)王子の師匠の家に行くと、一枚の切り抜きがぽつんと台の上に置いてある。

「そこに切ったやつがあるから、明日までに同じものを切っておいで。白い紙はもったいないから、広告の紙でも使ってね。できなければ来なくていいよ」

切るように言われた題材は「馬」だった。正楽一門で最初に必ず与えられるようになったお題である。こうして突き放すため、何人もの弟子が辞めていった。必死に喰らいついていった正作だけに、徐々に紙切りの秘伝を教えるようになったのである。

線を引いてから切る癖をつけると一人前の紙切り師にはなれないと、正作が鉛筆や万年筆でシルエットを描くことを禁じた。劇場へ行ったら、看板だけをよく見てくるようにと教えも下。看板はその劇のクライマックスを描いているからである。(後略)

初代正楽の芸評の高さをうかがわせるエピソードは数多く、1953年11月29日には「皇太子殿下御帰国歓迎会」に呼ばれ、昭和天皇、今上天皇の前で紙切りを披露している。後続にとっては初めての大衆芸能観覧であるし、鋏とはいえ刃物を手にして天皇からわずか2メートルの距離に近づいた民間人は近世以降では稀なのではあるまいか。最初に秩父宮妃殿下から「エリザベス女王」。「皇太子殿下は英国へいらっしゃいましたので実物をご存じですが、あたしは写真でしか知りませんので似ているかどうかわかりませんが」などと断りながら切り上げ、大喝采を得た。そのあと「戴冠式」ら「ライオン使い」「馬術」などの注文を切って25分の責任を果たした。

2代目正楽は初代とは正反対で、誰からも愛されたおおらかな人柄であった。著書として『正蔵師匠と私』(一声社)があるが、正蔵に弟子入りして正作という前座名を貰いながら正楽門下に転じたのは訛りがひどく、とても落語家としては務まらないと判断されたからである。出身は埼玉県武里村(現・春日部市)で東武伊勢崎線の一ノ割駅が最寄だった。農家の長男で、最初は縫製工場に勤めたあとで芸界に転じた。

正作時代のエピソードで有名なのは、本書でも紹介されているが「師匠、明日から田植えがありますので寄席を休ませてください」と願い出て正蔵に「バカ野郎、噺家が田植えなんかしちゃいけねえ」と叱られたという話だ。もっともこれは『正蔵師匠と私』によれば、正蔵に弟子入りしたはいいものの毎日毎日着たなりの汚い格好で家から一ノ割駅まで歩いて行くため、隣人たちから「あそこのご長男は何をしているんだろう」と怪しまれたのが原因であるという。田植えの時期になると道に人通りが多くなるので、決まり悪くていけないというわけだ。

この正作の正蔵には二人の息子があり、両方とも芸人になった。長男は二代目桂小南に弟子入りして桂小南治(2017年に三代目桂小南襲名)、次男が父の門下に入って同じ紙切り芸人となり、二楽を名乗っている。もっとも長男も本当は紙切りになるはずで、最初は落語家の修業をしたほうがいいだろうと小南に弟子入りしたところ、そのまま出世して真打になったのである。兄が文、弟が紙切りで挿絵と分担をして著したのが『父ちゃんは二代目紙切り正楽』(うなぎ書房)である。

同書で胸を打つのは、2代目正楽が相次いで両親と妻を亡くし、広い家に自分と二人の息子だけで淋しく暮らしていたという時期の記述だ。

(前略)さすがに弱気になったんでしょう。

「こんな家に生まれなければよかったと思うでしょう」

と漏らしたことがありました。

「そんなことはないよ」

と私(小南治)がいうと、

「そう……。だったらいいけどォ」

と笑顔を見せましたが、寂しげでした。

正楽も本当は、小南治に自分の跡を継いでもらいたかった。小南治が二つ目に昇進したとき、師匠・小南の粋なはからいで、正楽が膝代わりに呼ばれたことがあった。正楽は落語協会、小南は落語芸術協会だから、定席ではまずない顔合わせである。楽屋で会えば父親といっても「師匠」と呼ばなければいけないのは芸人のしきたりである。その日の高座を務め、二人はひさしぶりに肩を並べて一ノ割の実家に帰った。小南治が「師匠」と呼びかけると正楽は「二人きりのときは父ちゃんでいいよぅ」と照れたのである。

3代目の正楽が当代である。二代目が小正楽時代に弟子入りを志望したが、まだ二つ目で弟子をとれる身分ではなかったからか「教えるだけなら」という条件で門下に入ることを許された。芸人で食えない間は「紙切りに必要な知識を得ることができる」ということで早稲田大学の生協書籍部で働いている。冒頭に書いたとおりこの正楽の芸は寄席で見ることができる。興味を持たれた方は、ぜひご観覧を。

寄席芸人は数多くいるが、考えてみれば二代にわたってその芸を目撃できたのは数えるほどしかいない。色物でいえば、紙切り林家正楽だけなのである。幸い3代目の正楽はまだまだ元気であるし、いずれは2代目の息子である二楽がその跡を継ぐことになるだろう。晴れて4代目の襲名披露が行われたときには、この本を取り出してそっと眺めてみたいものだと思うのである。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

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