芸人本書く列伝classic vo.42 三遊亭圓歌『三遊亭圓歌ひとり語り 全部ウソ。』

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三遊亭圓歌ひとり語り 全部ウソ。

私と同じぐらいの世代で、十代のときに寄席出入りをしていた人は、三遊亭あす歌という音曲師のことを懐かしく思い出すことがあるはずだ。

こんな小汚い小屋(失礼)に、なんであなたのような人が! と驚いてしまうほどの、はっとするほどの美人で、三味線を抱えて座ったところになんとも色気があったものである。高座に出てくるとあす歌は、俗謡を一つ唄ってみせたあとで、自己紹介をする。

「三遊亭あす歌と申します。こう見えても三遊亭圓歌(2017年死去)の弟子でございまして。もっとも師匠は女優にしてくれる、って言うから弟子になったんですけどね。なかなかしてくれない。あれは、あたしのことを狙ってると思うんです」

客席はどっと湧くのである。そして全員が、

「そうか、圓歌はあす歌をやっちゃおうと思ってるのか」

と深く深く納得するのであった。あす歌、あのころ二十代の前半でしたからね。身辺に置いたらそりゃ大変だ。

三遊亭あす歌、現在の小円歌である(注:現・二代目立花家橘之助)。もちろん今でもお綺麗ですよ。どこの定席に行こうか迷ったら、小円歌の出ているところを選べば間違いない。

というわけで弟子の話から始めてしまったが、今回採り上げるのは『三遊亭圓歌ひとり語り 全部ウソ。』(聞き書き 田中聡。河出書房新社)である。この本を読んで最初に心を掴まれたのは、序章の終わりのこんな文章だった。

そういえば、思い出したよ。うちの弟子たちは、なぜだか家族に恵まれない子が多いんだ。(三遊亭)歌之介が入門した時に、「この子が小学校一年生の時別れまして」ってお母さんの話を聞いて、「和子、また片親だ」って前のかみさんに笑いかけたらしい。そういう子らを、惹きつける何かが俺にあるのかもしれない。まあ、落語の世界に家族を求めた私のところに、やっぱり家族を求める子供たちが集まるのは当たり前かもしれないな。

三遊亭歌之介の父親は酒乱だったため、母親は幼い歌之介兄弟を連れて実家のある鹿児島に戻った。その後仕事を求めて単身大阪に移住、兄も就職のため鹿児島を離れたため、歌之介は長い期間、祖母と二人暮らしを強いられたのである(『月ば撃つぞ!』うなぎ書房)。両親が揃った世帯を核家族と呼ぶが、社会の単位として見た場合は誤解のある表現である。核家族は決して最小単位としての「核」ではないからだ。世の中には片親、もしくは両親が揃っていない家庭が多数存在する。そのことをいちばんよく知っていたのが、圓歌だった。

三遊亭圓歌は本名・中沢信夫。ご存じない方のために書いておくと、現在、寄席で聞ける圓歌は、「中沢家の人々」という私小説ならぬ私落語のようなネタがほとんどである。川柳川柳が「ガーコン」のみなのとほぼ同様。マンネリズムである。しかし、だからつまらない、のではない。だからこそおもしろいのだ。この二人の演者は、唯一と言ってもいいネタを至芸の域にまで磨き上げている。そこが多数のネタを創り出しては掛け捨てにしていく三遊亭円丈とは決定的に異なる点だ。これはどちらがいいという問題ではない。円丈の場合は湧き上がってくる創作意欲を抑えきれないのだろう。圓歌や川柳のそれは、板前が自分の包丁を研ぐ感覚に近いように思う。手になじみ、体の一部のようになった道具が、最もいい仕事をしてくれるのだ。

「中沢家の人々」とは、強烈なデフォルメが施されたスケッチである。すでに老境に入った圓歌(後に書く理由で生年がはっきりしない)が、自分の両親と死別した前妻の両親、そして現夫人のそれと、計6人の老人を抱え、過剰な老老介護生活をしている、という内容だ。超高齢化社会を先取りしたような内容のこのネタの原型は、昭和40年代後半にはもうできていたという。お客の中には圓歌の境遇に同情し、六組の布団を贈ってくる方までいたそうだ。

しかし、これはフィクションなのである。作り話、フェイク、真っ赤な嘘。たしかに前妻の親の面倒を看ていた時期こそあったが、圓歌宅が介護施設のようになったことはなかった。

なぜならば圓歌には介護をしなければならないような両親がいないからだ。中沢信夫の戸籍上の両親は、父・小林松次郎、そして母・〆子。しかし圓歌は小学校に上がるまで古川信夫として過ごした。そして、物心ついたときから中沢タダという祖母と二人暮らしだったのである。何も知らなければ当たり前に思うようなことでも、周囲の家庭と自分の家が違うと判れば疑問も生じたはずである。当然だが、タダにも自分の特殊な境遇について聞いたことがある。

「何で俺には父ちゃんや母ちゃんがいないんだ」

何度も聞いたけどね。おばあちゃんは「いいんだよ、そんなこたあ」としか答えてくれなかった。

「あたしが屋根上がって、おなかポンってやったら、お前がでてきたんだよ」なんてこともよく言ってました。

何度もそんな問答を繰り返していると、「これは聞いちゃいけないことなんだあ」と思うんだよね、子供心にも。それから、あまり詳しいことは聞かなくなった。(後略)

本書には後でわかった事情として、中沢信夫少年も初めは両親と暮らしていたが、弟ができて家が手狭になったため、祖母と彼だけが別宅に移ったらしい、ということが書かれている。祖母の家は今でいうところの東向島、かつての花街・玉の井の近くにあった。そこで駄菓子屋を営んでいたので、近所の悪友たちも頻繁にやってきていた。その中で信夫少年よりも2つ学年が下で、一緒に小学校に通うような間柄だったのが瀧田祐作、後の漫画家・滝田ゆうである。滝田の代表作の1つである『寺島町奇譚』(ちくま文庫)に出てくる駄菓子屋のモデルは、この中沢タダの店であるという。

白鬚橋から東武・玉の井駅側近くにぬける大正通り(現在もある)を挟んで向き合っていた二つの商店があった。一つは「萬古屋」という草履店、もう一つは「金玉堂」という骨董店。発音をひらがなで書くと「ばんこや」と「きんぎょくどう」だが、滝田は中沢とこの前を通るときに、「マンコにキンタマ」と囃したてたという。(後略)(校條剛『ぬけられますか――私漫画家 滝田ゆう』河出書房新社)

近所には他に作家・早乙女勝元、自らの名前を関したワイドショーの元祖となったアナウンサーの小川宏らがいた。圓歌には吃音の癖があったが、「小川宏のしゃべりかたを真似したらこうなった」と冗談半分でよく言っていたという。

両親が信夫少年との同居に積極的ではなく、なおかつ祖母の戸籍に入れさせた理由については本書にも書かれていない。戦争で当時の戸籍を保存していた向島区役所が焼けてしまったため、記録も残っていないのである(生年が判らないというのはこれが原因だ)。小林家に、子供と離れて暮らさざるをえない、なんらかの事情があったのだろう。見過ごされがちだが、こうしたことはそれほど特殊な例ではなかった。核家族という幻想は戦後になって作られたもので、大戦に負けるまでの日本の家族は、もっと曖昧なロジックによってつながっていたのだ。おそらくは両親がいないことを信夫少年も不満に思い、淋しくも感じたのだろうが、祖母の愛情に包まれ、また友人たちとの交流を楽しみながら、逞しく成長していった。

信夫少年は岩倉鉄道学校(現・私立岩倉高校)を経て学徒動員で新大久保駅の駅員となり、そこで終戦を迎えている。当時の鉄道員は、成人男性が出征のため不足しており、学徒動員の少年や、女子挺身隊の女性ばかりである。空襲警報が出て防空壕に入ると、そこには女性の先客がおり、「あんちゃんね、いつ爆弾が落ちてきて、死ぬかわからないんだから、したいことをした方がいいよ」とモンペを脱いで乗っかってきた。童貞喪失である。

もともと学校では見よう見真似で落語をやっていたが、別に好きでもなんでもなかった。後の三代目柳亭市馬(先代。故人。通称「ポコちゃんの市馬」)が当時は四代目の三遊亭圓楽(先々代。故人)を名乗っていた。彼の母親が信夫の母親と懇意にしていたことから、二人は終戦後の一時期同じ長屋の二階に同居していたのである。兄貴分の圓楽に「どもりって治るのかなあ」と相談してみたところ落語家になることを勧められた。最初に連れて行かれた蝶花楼馬楽(五代目。後の七代目林家正蔵。故人)は堅すぎると断り、上野鈴本演芸場で聴いた新作「木炭車」が面白かった二代目三遊亭円歌に入門した。正確な日時はわからないが、戦後の落語協会入門者の第一号であるという。

この二代目に鍛えられ、信夫少年、前座名「歌治」は落語家として成長していく。第四章「師匠と弟子」以降が、落語家時代の記述である。あれほど苦手にしていた(「新大久保」と駅でアナウンスしようとすると「新、新」でつっかえてしまって後が出なかった)吃音も早々に矯正された。

(前述)で、うちの師匠が考えたんですね。大きな一反風呂敷をね、私の後ろっ側にね、吊るしたんですよ。で、「おばあさん」っつって呼んで、豆をいっぱいもらってきた。(中略)で、それをそのまんま、手に持ってね、私が「ま、ま、ま」ってやったら、かっ、ぽんって、ひとつずつ当ててきたよ。一ヵ月ぐらい続いたかな、そういう稽古が。

あんまり痛えんで、うちで稽古してても、なんだかよくわからない。うちの師匠は、豆をぶつけることで私が「ま、ま、ま」と言いそうになるのをはずしてくれてたんですよ。それが、やがて自分でもわかるようになった。

本書のもう一つの魅力は「戦後前座第一号」の圓歌の口から、貴重な証言がいくつもなされることであり、この豆の稽古のような芸談が何気なく語られることである。

戦時中から敗戦直後にかけての落語界で有望とされた若手落語家は、三遊亭歌笑(三代目)、柳亭痴楽(四代目。故人)、柳家小きん(七代目)の三羽烏だった。歌笑は「純情詩集」の持ちネタで一世を風靡した。それが1950年5月30日に進駐軍のジープにはねられて死に、空いた穴を埋めたのが痴楽である。痴楽が「破壊された顔面」をキャッチフレーズとし「綴り方狂室」「恋の山手線」などの新作でやはり時代の寵児となった。二人と違って小きんは古典派で、派手な売れ方こそはしなかったが、次第に頭角を現してくる。1947年に九代目柳家小三治を襲名、後の五代目柳家小さんである。こうした人々の月旦を圓歌の談話は詳しく伝える。

1948年、二つ目に改名して「歌奴」になっていた中沢信夫は、ふとしたことがきっかけで円歌の下を飛び出し、しばらく大阪に滞在していた。やがて帰参するのだが、師匠が復帰のために課した条件の1つが、1ヶ月で新作を作ってくることだった。このとき歌奴が作ったのが「授業中」である。石坂洋次郎の長篇小説『何処へ』(新潮文庫他)の一節からヒントを得たといわれ、秋田弁の強い先生が東京の小学校に赴任してきて起きる珍騒動を描いたスケッチの新作だ。その中にカール・ブッセの詩「山のあなた」を朗読しようとして吃音の子供が「山のあなあなあな……」となってしまうくだりがある。これが若い世代の間で話題となり、一挙に歌奴人気が爆発するのである。ラジオ出演から火がつき、やがてテレビにも進出して地歩を固める。そのときのライバルとなったのが爆笑王・林家三平(先代。故人)である。

しかしこの人気の絶頂期に、歌奴は師匠・円歌から「山のアナ」を1年間やらないように命じられる。

「なんでだろう」と思いますよね。

「それで、小勝になった(桂)右女助は、だめんなった」

そういわれたんですよ。

「ゴム屋、ゴム屋って言われて、その気になって、『水道のゴム屋』ばっかりやったから、客がそれしかやらせてくれなくなったよ」

そこから歌奴の新作創作の格闘が始まる。ニッポン放送の田中秀男の肝煎りで「創作落語会」が始まったのは1952年のことであり、歌奴、三平、桂米丸、三遊亭金馬、春風亭柳昇(五代目。故人)三遊亭圓右(三代目。故人)といった面々がレギュラーであった。そこで切磋琢磨した結果が、後の「中沢家の人々」につながるのであろう。三遊亭歌奴は1970年に三代目圓歌を襲名、現在に至る。

本の分量としてはだいたい以上の内容で半分くらい。後半はさらに二度の結婚の事情、小円歌や歌る多など多数いる弟子たちのこと、さらに1970年代から80年代にかけて落語協会を見舞った二度の分裂騒動、自らの会長就任などのことがたっぷり語られている。私は発見が多く、たとえばプロレスラーのラッシャー木村(故人)を弟子のように面倒見ていたという話も初耳だった(アメリカ遠征時には大量にカップ麺を送ったとか)。

後輩についての言及も多く、たとえば新作落語の中興の祖である円丈を評価し、あれは「一人称落語」であり「三人称で描写をしていく」、基本的には「古典落語の長屋モノと同じ構造」の自分の新作とは異なるものだ、という分析などは一読に値する。柳朝、志ん朝、円楽、談志のいわゆる「寄席四天王」についても一人ひとり十分な人物評がある。特に「愛煙家だが嫌圓歌」だと伝えられた故・談志についても好意的な評を書いている点は興味深い。戦後落語家の第一号として、後輩たちに注ぐ視線は常に温かいのである。

題名こそ『全部ウソ』だが、これは「中沢家の人々」が美談と見なされることへの照れの表明だろう。しかし内容はフィクションだが、フィクションならではの救い、優しさがあるから客は圓歌を評価するのだ。含羞に満ちた一冊だが、その人柄を行間から読み取ることは容易である。落語家らしい落語家の、人間らしい著書としてこれを読んだ。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

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