芸人本書く列伝classic vol.39 壇蜜『壇蜜日記』

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壇蜜日記 (文春文庫)

普段は芸能人のげの字も口にしない知人が「『壇蜜日記』はすごいよ。壇蜜って頭いいんだなあ」と言っている場面に出くわした。一度ではなく三度も同じことがあったので、世の中年男性のうちかなりの数がそう言っているのではないかという結論に達したのである。

『壇蜜日記』はすごいよ。壇蜜って頭いいんだなあ。

「壇蜜って」と「頭がいいんだなあ」の間には「本当は」が入る。テレビで見ている芸能人の内面など知るよしもないが、きちんと本人が書いたものを読めばだいたいのことはわかる。理路整然とした文章があれば普通は「頭いいんだなあ」という感想につながるわけである。つまり「頭よく」見せるために芸能人の文章は書かれている場合がほとんどなのであり、そう見えないなら書いたものを見せようとするはずがない。客は、「頭いい」と発言した瞬間にその芸能人の戦略に乗ってやったことになる(はずなのに、稀に本人が『頭いい』を自慢しようとしているにもかかわらず、どうしようもなく『ばか』に見えてしまう物件などもあるから油断できない)。思う壺なのだが、なんでみんな「壇蜜って頭いいんだなあ」って言うかなあ。いや「頭いい」こそが素直な感想だったのかもしれないけど。言っていたのがみんな海千山千の出版人だったので、ちょっと不思議に感じた次第である。あれかな。芸能関係が専門じゃないから、油断したのかな。

と、ちょっと意地悪なことを書いてみたがたしかにこの『壇蜜日記』はおもしろいエッセイ集だった。2013年10月7日から2014年8月16日まで、1日も休まずにウエブ上で日記をつけ、それをまとめたものがこの本である。1本当たりはそう長い文章ではなく、300~400字程度である。意識してそれ以上にならないように制御している節もある。ウエブ掲載されていたところは見たことがないのだが、芸能人ブログによくある、改行を多用した文体ではない。読点が極端に少ないのは私好みの文体である。それできちんと意味がとれるのは文節ごとにまとまりがあるからだ。頭から最後まで視線を流してみれば部分部分が独立して見えるので記号によって区切らなくても意味をとることができるのである。なるほど。こういう文章を見たらたしかに「頭いい」と言いたくもなるだろう。

文庫は季節ごとに章立てがされている。毎日の日記の内容を大別すると、

1)昼寝が好きで猫や熱帯魚たちと引きこもって暮らすのが好きな33歳の日常。

2)努力が十分に実ったとは言いがたい来し方についての反省。

3)将来への不安。特に加齢によってタレントとしての活動の場が制限されていることについて。

というのが基調になっており、この3つが繰り返される間に、

4)仕事で出会った人々の風聞。特に好ましい人についてのフェティッシュな観察。

が挟まれる構成になっている。芸能人の書いたものといえばだいたい誰もが想起するのは実名を挙げての交遊録だろう。しかし本書には他の芸能人の名前はほとんど出てこない。出てきたとしてもほのめかす程度であり、直接固有名詞を書くことはさけられているのである。

昔の日本のリーダーと面会をする。(中略)別れ際に作業中にまとうツナギを欲している事が分かった。しかしながら世が世ならお殿様の彼にツナギをプレゼントしてよいものかという点でも悩む。(後略)

この「世が世ならお殿様の彼」でようやく細川護熙のことだろうと察しがつく。だが、この2013年12月2日の面談がどういう経緯で、なんのために行われたものかはまったくわからないのだ。そうした具合に具体性を欠いているのはネット検索などで状況を特定されるのを避けるためなのではないかとも思えるのである。今はなんでもネット検索で見つけられ、まとめサイトで事実として記述されてしまう時代だが、そうした特定を避けたいという強い意志が筆者の文章からは感じられる。

芸能人が芸名で書いているのだから匿名志向とは少し異なるが、情報の渦からは身を遠ざけておきたいのだろう。「壇蜜が書いた」という意味が成立してしまうのはやむをえないこととして、それ以上の何かが文章に付着するのを筆者は回避している。そうすることによって逆に芸能人が書いたという一般化から逃れ、「壇蜜」という個性だけが浮上する効果があるからだ。

また、普段は芸能界などにほとんど関心がないように振る舞っている中年男性たちにこの本が受けている理由もそこにあるように思う。芸能人であることを押し付けない態度が謙虚であると受け止められているのだろう。壇蜜という芸能人に対して一般人が抱いている印象には濃淡があるはずだ。どの層に対してもこの戦略は有効なはずである。

芸能人という特殊な職業であることを押し出しすぎない、というのは一歩間違えば危険なことでもある。「普通のボク」「普通のワタシ」を見て欲しいという主張は、「そんな稼業についておいて今さら言うな」という反感を招くからだ。それくらいであればむしろ「スター」や「天才」を謳ってもらったほうが潔い。

しかし壇蜜は、固有名詞を拝した世界で自分と猫と熱帯魚だけの小さな世界を公開することにより、巧みにそうした普通アピールからは抜け出している。固有名詞を壇蜜だけに限定することにより、芸能界/芸能人とは切り離された特殊さだけが際立つという仕掛けなのだ。上に挙げた1)2)3)は、語り方によっては自虐や韜晦のわさとらしさが鼻について仕方なくなるたぐいの話題だ。それから自由であるのは、以上のような世界の区切り方に芸があるからなのである。

今の芸能人ブログは彼らの居場所が一般人と地続きであることを強調する傾向がある。ステージから下りればボク/ワタシもあなたと同じ普通の人間です、という媚びがそこにはあるのだが、それが欺瞞であることがはっきりしてしまうのがいわゆる「すっぴん自慢」だ。メイクを落とした私の顔を見てください、という要求の陰には「メイクなしでも(人並み以上の美貌を持つ)ワタシ」という自己主張が存在する。そうではなければ公開などしないわけで「普段は普通に暮らしている(けど芸能人だからやっぱり普通の人とはちょっと違う)」という本音がそこには見えてしまう。

『壇蜜日記』はそのへんの感覚についても敏感で、やたらと「33歳の中年である」という自己主張が多い。世間的には33歳というのはまだまだ若い部類に入るが、グラビアを主戦場とするのであれば事情も違ってくるのだろう。なにもそこまで自虐に走らなくても、と部外者としては思うのだが「最近の私はキー局というくくりのテレビ番組に出ていなければ「消えた」と言われ、出ると「飽きた」と言われる」(2014年5月3日)という立場では、必要以上に慎重にならざるをえないのだろうか。

ラジオの仕事はいつもできるだけ眉毛だけ描いて取り組む。(中略)しかしラジオは顔をタオルでこすったり爪で引っ掻いたりしながら話す癖があるため、化粧したままだと周囲や服を汚したり崩れて不快にさせるかもしれないから化粧を落とす。シミもシワもさすがに増え始めた。白髪もどんどん頭髪内を侵食している。(2014年6月19日)

全体を通して読むと、序盤(2013年秋)の記述にはいかにもオヤジジャーナルの男たちが喜びそうな文章が多く、時間が経つに従って上記のような赤裸々な告白が増えていっているということがわかる。やはり「つかみ」なのである。このへんは間違いなく計算していたはずだ。

参加者の乙女の一人は、彼の一番の魅力は何かと記者に聞かれ「眉間のシワ」と答えていた。シワで稼ぐ人生もあるなら、スジで稼ぐ人生もあったってよいではないか。(2013年10月9日)

やらずボッタクリの世界と一部の人に言われても、気が合えばお店のお客とホテルに行ってもいいと思っていた私はホステス失格だったのだろうか。(2013年12月18日)

一昔前だと、男性誌グラビアなどで話題になっているタレントが一般メディアにも露出を果たすきっかけは「認知度の高いエロオヤジの発言」だった。みうらじゅんによって週刊SPA!、桑田圭祐によってプライムタイム、そしてゴールデンへ、という流れである。最近はAV女優のことをセクシー女優と呼んだりして、性欲を喚起させるためにいる人を曖昧にして言う傾向がある。たぶん壇蜜は「桑田圭祐ルート」の最後のセクシータレントになるのではないだろうか。

「セクシー」という通行手形には期限があり、将来的には壇蜜もその枠から外れることになる。本書の中ではたびたび「壇蜜」の賞味期限について言及されているくだりがあり、そのことに自覚的であることも強調されている。本人曰く「劣化」の実況中継をしているようなものであり、そういう自己言及がおもしろくないはずがないのである。一般化していえば、どんなタレントにも旬の季節があり、それが賞味期限ではなくなる時がやってくる。回避はできないだろうが、来るべきときに備えて自己を整理しておくことは可能であるはずだ。その過程を淡々と綴ったものとして私は『壇蜜日記』を読んだ。芸能人/芸人本として、かなり異色の本である。壇蜜の世界の作り方に感心しきりであった。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

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