芸人本書く列伝classic vol.27 笑福亭鶴瓶・桂南光・桂文珍・桂ざこば・桂福團治・笑福亭仁鶴・小佐田定雄編『青春の上方落語』

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

青春の上方落語 (NHK出版新書)

私が最初に聴いた上方落語は、当代(三代目)桂米朝のそれだった。NHKのテレビで観たはずで、たしか演目は「鹿政談」だった。奉行の裁きの場面に迫力があり、子供心に「すごいおじさんだなあ」と思った記憶がある(関西弁のおっちゃん、ないしはおっさんという言い方は、まだ東京に入っていなかった)。

こうして明確に覚えているのは、逆にそれだけ上方落語を聴いていなかったということの顕れでもある。自らの不勉強を棚に上げるようで恐縮ではあるが、1980年代、普通の中学生が上方落語に触れる機会は極端に少なかった。佐竹昭広・三田純一編集の『上方落語』という上下巻の本が筑摩書房から出ており、最初は速記で読んだのだ。その時分、鶴光はラジオの人であり、文珍はテレビの人であり、米朝以外の上方落語四天王、六代目笑福亭松鶴(故人)、三代目桂春團治、五代目桂文枝(故人)といった大看板の高座は遙かに遠かった。今のように上方言葉が全国区になる前の話である。

落語作家・小佐田定雄がまとめた『青春の上方落語』(NHK出版新書)は私のような「米朝以外に上方の演者を聴けずに十代までを過ごした落語ファン」にとっては空白を埋めるような意味を持つ一冊である。六人の落語家が登場し、自身の修業時代についてインタビューに答えている。収録順ではなくそれぞれの師匠への入門順に並べると、以下の通り。

桂福團治(三代目桂春團治門下。1961年5月入門)

三代目笑福亭仁鶴(六代目笑福亭松鶴門下。1962年4月入門)

桂ざこば(三代目桂米朝門下。1963年5月入門)

桂文珍(五代目桂文枝門下。1969年10月入門)

桂南光(二代目桂枝雀門下。1970年3月入門)

二代目笑福亭鶴瓶(六代目笑福亭松鶴門下。1972年2月入門)

全員が前出の四天王の弟子、もしくは孫弟子である。桂南光の師匠である桂枝雀(故人)は、桂米朝の弟子であり、初めの高座名を桂小米といった。南光は枝雀が小米と名乗っていた若手時代からの弟子で、入門後は内弟子になったが、枝雀が知人宅に間借りをして住んでいたため、師弟共に借家人になった。枝雀は結婚後もその状態を変えようとせず、師匠夫婦に内弟子が他人の家で暮らすという奇妙な状態ができあがったのである。

ぼくは「奥さんが来はったら、さすがに森本先生の下宿は出はるやろなぁ」と思うてたら、師匠はねえさんに「森本先生と話したいので、ここで暮らそうと思うけど」て相談してました。ぼくがねえさんだったら「ちょっと待ってくださいよ」となると思うけど、ねえさんは、

「わかりました。お兄さんがそないしはんねやったらいいです」

ねえさんは大変だったと思いますよ。森本先生とこの台所を借りて炊事したりせなあかんから、気ぃ遣いますでしょう。

高座を降りた枝雀は極端に内向的で、自分の世界が侵されるのを極端に嫌ったそうだが、その性格がよく出ている。また枝雀は結婚前に同居人である南光(当時はべかこ。まだ18歳)に妻となる人を引き合わせ、意見を聞いた。その際彼女には「彼(べかこ)がオッケーしたらオッケーやから」と告げたのである。つまり弟子との関係を結婚よりも優先しようとしたのだ。

落語家の師弟関係は麗しいものだが、本書に紹介されたエピソードの数々でもその紐帯の強さを知ることができる。五代目の松鶴は豪放磊落な性格で知られ、武勇伝にも事欠かない人物である(田中啓文は彼をモデルにして〈笑福亭梅寿謎解噺〉シリーズを書いた)。さぞかし弟子に対しても理不尽に振る舞っただろうと外野は思ってしまうのだが、さにあらず、弟子の人に合わせて長所を伸ばそうとする、優しい面を持ち合わせていた。笑福亭鶴瓶はアフロヘアを切らずに入門し、その風貌をトレードマークとしてまずは落語よりもテレビタレントとして売れっ子になった。松鶴はその弟子にほとんど落語の稽古をつけなかったが、鶴瓶が弟子を取ることになったときには、その笑瓶に対して「芸とかよりも、こいつの生き様を見習え」と次げたという。

鶴瓶がよく語る師匠噺にこんなものがある。入門したてのころ、鶴瓶はとある新聞記者と衝突した。その記者が松鶴の出ている落語会に顔パスで入ろうとして、態度が余りに横柄だったことに腹を立てた鶴瓶と口論になったのである。新聞の芸能欄を担当する新聞記者が顔パスで入場するのは業界の慣例であり(しかも、その会を主催していたのは記者の属する新聞社だった)、さらに鶴瓶はまだ師匠から名前ももらっていないペーペーだった。

その喧嘩について聞かされた松鶴は――。

(前略)おやっさんがだまーってこっちを見て、

「おまえ、向こうにいけ」

ぼくが「すんませんでした」言うて楽屋を出ていったら、後ろでおやっさんが、

「おのれ、コラ! なにしとんねん! いずれ、あいつ(鶴瓶)になんぞ取材とかせんなあかんようになるかもしれんやろ! いね! カス」

て、怒鳴ってる声が聞こえてました。

贔屓筋といってもよい新聞記者よりも弟子をとったのである。それ以降鶴瓶は「蹴られても、傘で突かれても、このおやっさんに付いていこう」と考えるようになった。

巻頭で小佐田定雄が概観を書いているが、戦争後に一度上方落語は滅亡の危機を迎えた。東京落語には戦前からの人気者たちが健全だったが、上方では大看板が相次いで世を去り、伝統の糸が絶たれそうになったからだ。その苦境にあって奮闘し、見事に灯をともし直したのが前述の四天王たちなのである。各師匠はそれぞれに若い才能を探し、伸ばそうとしていたのだろう。インタビューで語られる落語家たちの修業時代の背景には、そうしたベテラン落語家たちの強い意志が透けて見えてくるのである。

小佐田によれば、上方落語復興のきっかけとなったのは1966年7月に米朝が独演会を開始し、かつ10月から一門会を始めたことである。その会(通称「金比羅さんの会」)は米朝が一門の落語を高座の袖で聴いてダメ出しをするという厳しいものであった。米朝は全国を廻って上方落語の普及に務めた人だが(私がそうであったように、米朝によってそのおもしろさに気づかされた非関西圏の落語ファンは多いはずである)、後進育成にも熱心だった。その親切さは、米朝門下だけではなく他の一門の弟子にも及んでいたという。

桂福團治には、ポリープのために声を奪われていた時期がある。もがき苦しみながら福團治は手話落語という新しい表現方法を思いつき、高座にかけた。しかし周囲の者が皆温かくそれを迎えたわけではなかったのである。落語界には、新しいものを嫌う空気もあるからだ。

(前略)陰でみなボヤいていたとき、(桂)米朝師匠が、

「福ちゃん、このネタ手話落語に作られへんかい」

ほたら、みながハッとして、「手話落語てオーケーなんや」。それからみながぼくに協力するようになって、「おもろいがな。あれ、こないしたらどや」とまで言ってくれるようになって。

こうした形で若手に救いの手を差し伸べたのはひとり米朝だけではなかっただろう。四天王に見守られながら、戦後の第二世代、第三世代は育っていったのである。伝統を継承しつつも新しいものを常に生み出そうとする姿勢が、今日の隆盛を招くことになった。弟子たちが師匠から習ったものは、高座に上がったときの落語の技術だけではない。文字通り人生を教え込まれたのである。

うちの師匠(春團治)は人とのつながりの筋を間違えたら一番怒ります。例えば、Aという人のおかげでBさんと知り合うたとしたら、「Aさんのおかげ」という絶対に忘れたらいかんと。いまやったらBさんに直接お話しして、Aさんのほうはほっといたらえぇてなもんですけど、われわれのときは絶対に筋を通さないといかん。(中略)

せやからぼくら「名刺は持ったらいかん」と言われてました。マネージャーがおるから。ぼくが名刺渡したら相手の人が直接こっちに話をしてくるようになりますな。直接言うたほうが早いし、値段的にも安くいく場合もあるからね。でも、「それは絶対にしたらあかん」と教えてもらいました。いまだにその教えは身にしみこんでます(福團治)。

大ベテラン、大看板の風格を備えるようになった桂文珍は言う。

わたしは師匠(文枝)のおうちの玄関に立つと、四十数年前にピュッと戻れるんですね。初期化できる。一番ありがたかったのは、「どうやって噺家として生きていったらいいいんだろう」と、思わんでもいいことで悩んだときに、師匠のとこへ行くと、いきなり初期化される。(中略)

わたしの中では師匠はまだずっと元気で、ちょっとしばらく会うてないなぁぐらいの感じですね。お仏壇の前に座らせてもらっても「なんでオレ手ぇ合わして拝んでんのかな」て思うことがあります。師匠は、今でもずっといてはるなぁと。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存