小説の問題「ゆっくり歩こう ゆっくり読もう」山村修と円城塔と木内昇

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 以前、徳間書店より「問題小説」という月刊の小説誌が刊行されていました。

 長年にわたって杉江が、時評の本拠地としていた雑誌です。最初に連載のお話をいただいたときは1ページでした。それがだんだんと増えていき、最終的には4ページになりました。当時の小説誌を見渡しても、これだけの文字量を一人の書評家に使わせてくれていたところは珍しかったと記憶しています。書評欄最終回は2011年12月号、「問題小説」が「読楽」へとリニューアルするにあたり、書評担当の任を降りました。長期にわたる連載が終わるときはいつも名残惜しいものですが、このときがいちばんだったという記憶があります。

 bookaholicでは、この「問題小説」に寄稿した書評をランダムに再掲していきます。過去の書評で恥ずかしいのですが、よかったらお読みいただければと思います。「問題小説」の書評のリバイバルなので、タイトルを「小説の問題」としました。最初にご紹介するのは、ラス前の2011年11月号原稿です。この直前に連載終了を通知され、読者にお別れを言うつもりで残りの2回を書こうと決意したのでした。お別れを言うための原稿から始めるというのも、またリバイバルらしくていいのではないでしょうか。

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「ゆっくり歩こう ゆっくり読もう」

唐突ですが、この連載は次号で終了ということになりました。お名残惜しゅうございます。あと二回は、読書に関する本をとりあげて、私からのご挨拶代わりに置いて参りたいと思います。

410earp3kl-_sx353_bo1204203200_『増補 遅読のすすめ』は〈狐〉の筆名で長らく「日刊ゲンダイ」紙に書評を発表し続けた、故・山村修の読書エッセイである。単行本の刊行は二〇〇二年。このときはまだ山村が〈狐〉であることは明かされていなかった。

題名からお判りのとおり、本をより遅く、より少なく読もうという呼びかけの本である。冒頭、夏目漱石の『吾輩は猫である』(新潮文庫他)をとりあげ、その終盤(第十一章)に次のような一文があると山村は書く。

――呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。

猫の飼い主である苦沙弥先生の家にいつもの奇人たちが集まり、がやがやと馬鹿話に興じる。現行の文庫で約八十ページにも及ぶ大放談だ。美学家の迷亭と哲学者の八木独仙がヘボ碁を打っている場面から始まり(漱石は落語好きで知られるのだが、ここは『浮世床』を連想させる。ことによると落語家の方で影響を受けたか)、理学士の寒月君がヴァイオリンを買いに行く話になる。このエピソードは見事といっていいほど何もなく最後に「無」だけが残る。まるで禅問答です。

『猫』はさまざまな人士が苦沙弥先生を訪ねきて、その模様を猫が傍聴する、という箇所がいちばんおもしろい小説である。そのゲストたちが最後に勢ぞろいして読者に見得を切ったのち、ぞろぞろと舞台から退場していくのである。その後に「呑気と見える人々も」の一文がある。

しばらく『猫』を読まずにいたが、この小説に陽気さと裏腹の淋しい感じがあることは覚えていた。その印象がどこから来るのかといえば、まさにこの一文だったのである。山村に指摘されるまで気づかずにいた。虚を衝かれた思いだ。

この小説を読むのは三度目になるという山村は告白する。

――前回は気がつかなかった。そのときはたぶん、右の痛切ともいえる一行は目をかすめただけである。読んで感銘を受けたけれども忘れてしまったというのではない。目には映っているが印象をとどめない。なぜだろうか。答えはきまっている。速く読んだからだ。

本を読んで文章を書くことを生業としている身からすると誠に耳が痛い。自分もどれだけ「かすめ読み」をしてきたのだろうと暗然とした気持ちになった。

山村は続けて、読書量を競うことは著述業のような特殊な稼業以外には何ら意味のあることではなく、単に数を競うだけの愚であると指摘する。力まかせの読書の好例としては月に一万ページを読むことをおのれに課していたという作家・杉浦明平を挙げ、ただし杉浦には法螺吹きのような愛嬌があるからこそ許されたのだと弁護してみる。同じ行いが誰にでも必要だとは考えていないのだ。

読書にわずかな時間しかとれない人のほうが世の中には多いだろう。一日わずか十分でも本のために割ければ御の字という人が本誌読者でも大半なのではないか。『遅読のすすめ』は、そういう人に読書を真の意味で楽しむやりかたを教えてくれる。お忙しいとは思いますが、ぜひこの文庫を手にとってみてください。

というわけで今回は山村主義で二冊の本を読んでみた。焦らずにする読書がどれほどれほどの楽しみを生むものか。

%e3%83%80%e3%82%a6%e3%83%b3%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%89-1 円城塔『これはペンです』は、理学系の研究者でもあり、主にSF読者から支持を受けている作者の最新作である。

といっても小難しい内容ではない。二篇を収めた中篇集であり、二篇とも変わり者がいる者が主人公で、その心の内奥を覗こうとするという謎解き仕立てになっている。たいへん読みやすい。収録作のうち「良い夜を待っている」は物事を忘れることができない超記憶症候群の父の生涯を息子が振り返るという内容だ。

表題作のほうは「叔父は文字だ。文字通り」という挑発的な文章から始まる。

主人公の叔父はプログラミングによって機械に文章を自動生成させるという風変わりな研究の第一人者だ。変わり者の叔父は、やがて日本を離れて世界中を飛び回るようになった。書類上の手続きで大学を創設し、その学位と自動生成された文章を論文としてセットで販売するビジネスを始める、というあたりから民話の「うそつき弥次郎」のような胡散臭さがぷんぷんしてくる

そんな論文を書いても仕方ないだろうと思われるが、世の中には掲載料さえ支払えばどんな文章でもとってくれる論文誌があり(あるらしい)、ちんぷんかんぷんな論文に対して「わからない」ことを認めるええっかこしいな専門家が多数いる。同時に世の中には「学位」を肩書きとしてありがたがる人も相当いる。かくして商売は大成功を収め、叔父は自分の設立したインチキ大学の学位を取得して肩書きを作り、他人の顔を自分の肖像として借用して、つまりまったく意味をなさないプロフィールを新たに作り、世界のどこかへと消えてしまう。

主人公に対して叔父は「姪」と呼びかける通信を送ってくる。署名は叔父だ。彼女が明かす叔父の奇矯な手紙(というよりは叔父の「出力」)が次々に紹介される、というのが話の展開であり、ますます『ほらふき男爵の冒険』(G・A・ビュルガー。小学館ほか)のミュンヒハウゼン男爵然としてくる。

叔父のやろうとしている実験は、発された言語がその背後に実体があることを前提としている、といったつながりを断ち切ることだ。そのため叔父は、さまざまな手段を用いて文章を綴ろうとする(アルファベットを刻印した磁石を並べて作成するなど)。暗号化された論文を送ってきた際には、奇妙極まりない解読プロセスが必要となった。

「1.叔父がその論文で提出した手続きにより、叔父の論文を処理する」

「2.叔父がその論文で提出している手続きの解説がそこに現れる」

姪が嘆くとおり「箱を開ける鍵が箱の中に入っているような状態」だ。こうした具合にナンセンスな「出力」を読んでいくのは非常に楽しい。本作は受賞作なしに終わった第百四十五回芥川賞の候補作でもあるのだが、一部の選考委員が本作に授賞することに力いっぱい反対した理由がわかるような気がする。叔父の実験は、文章を書き手から切り離されたものとして独立させ、オリジナリティの根拠を生成の課程だけに求めるようなものだ。これを敷衍していえば書き手のパトスなどはまったく文章に影響はなく、文体というものは偶然の産物に過ぎないといっているようなものだからだ(円城がそこまで考えているのかどうかは知らない。単にふざけて書いただけなのかもしれない)。そりゃ、むっとするだろう。

もう一作の「良い夜を待っている」は前述のとおり超記憶の持ち主が話の中心にいるのだが、彼(父)の記憶が頭の中に都市を作り上げ、その中で暮らしているようなものだという説明がおもしろい。その世界の中では、記憶によって積み上げられた時間の流れというものがない。したがって未来に出会うはずの妻は、父にとっては幼少のころから親しんできた女性として意識されるのである。未来に生まれる息子に子供の父が諭されたりもする(その息子が主人公なのである)。

そうした形で因果の関係を分解し、それが過去から未来へ整然と流れる時間というものを前提にしなければ成立しないということを示した作品だ。無論ほら話である。これまたさまざまな「ほら」が楽しいのだが、その中でシャーロック・ホームズが『緋色の研究』(コナン・ドイル。光文社文庫他)で初登場したときの逸話がパロディ化されている。

ジョン・H・ワトスン医師はルームシェアの相手として知人にシャーロック・ホームズを紹介される。そのときホームズはワトスンを一目見て「最近まで、アフガニスタンにおられたのでね」と言い、医師を驚かせる。当たっていたのだ。

円城によればホームズの推理は、現在に合致し、未来へも有益な推論をもたらす過去を勝手に選択したものである。父にとってはそうした形で過去が現在に盲従するのはありえないことだ。一方向に時間が流れているわけではない以上、過去は現在・未来と無関係に選択肢を持つのである。世界の形を維持するために、父の中で因果は反転しさえする。

「君がアフガニスタンから帰ってきたところであるために、君は医者風に見え、軍人の気配をまとい、日に焼けて、腕を怪我している必要がある」

『これはペンです』の収録作を謎解き小説に似ているとさっき書いたが、むろんプロットを追って読むような小説とはまったく異なっている。部分部分を読み、遊び、戯れるべき作品だ。これほど遅く読むことに適した小説はないのである。薄い本ではあるが、何度も繰り返し読むこともできる。気に入ったところだけ取り出して玩味してもいいのだ。

71zqnfmr3al まったくタイプは異なるが、木内昇『笑い三年、泣き三月。』も遅い読書に適した本である。第二次世界大戦が終わった翌年、演芸の本場である浅草で一花咲かすことを夢見て岡部善造という男が上京してくるところから話は始まる。

善造をかもにして食事にありつこうとして、戦災孤児の田川武雄が近づいてくる。善造の芸は浅草で通用するものではなく、小屋からは門前払いをくわされる。失意の善造を励まし(遠くに行かれたのでは自分が困るから)漫才の相方として活動屋崩れの鹿内光秀という男を武雄は連れてくる。こうやって人が集まっていき、小なりともバーレスクの形ができてくるのである。

弱い者ががんばり助け合って一つのことをなしとげる、という美談の形式をとっていないところが私には気に入った。見事にバラバラなのである。特に光秀という男がよい。皮肉屋の性格が災いして活動屋としては大成できず、そのためにまたひねくれるという、自家中毒の見本みたいな男なのだ。彼は終始、嫌な、中身のない男として皮肉を飛ばし続ける。最初の登場のしかたからしてよい。光秀は暇つぶしに、自在に屁をひって屑拾いの子供たちを笑わせているところを、善造と武雄に見つかるのである。文字通りの屁っぴり男である。

主人公の一人である岡部善造という男から私は岡本綺堂『半七捕物帳』(光文社時代文庫他)を連想したのだが、それは彼が漫才師ではなく、万歳の才蔵だったからだ。『半七』の二巻には「三河万歳」という話が入っているのである。万歳は漫才の原形ではあるが基本は門付けの芸であり、近代の都市住人たちに受けるような性質のものではない。そうしたアナクロニズムの権化が突如アナーキーな焼け跡の街に出現してしまう話なのだ、とわかると改めて笑いがこみあげてくる。これも連想自在な遅読の効用だろう。

小説は三人の主人公たちがつかず離れずの距離で過ごしていくところが心地良く、特に食べ物にこだわるところが現代とはまったく異なっていておもしろい。ガツガツ読まず、光秀の屁などをほんわか鑑賞していくべき小説なのである。

(初出:「問題小説」2011年12月号)

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