先々週の日曜日はまだ愛知県にいた。
ホテルで起床し、出かけてちょっとした作業を済ませた。この件についてはまた別途。
そこから地下鉄桜通線で御器所駅まで行く。地上に出てから東に向かってひたすら歩く。道の左側に目指す場所はあった。今日のお目当て、空の鳥文庫である。
この店はGoogleMapを検索して見つけた。ついているコメントに気になるものがあったのである。いわく「移動式書架と十進法分類に基づいた書籍リストが特徴」とある。移動式書架は判るが、十進法分類とはいかに。図書館のような配列の棚なのだろうか。考えながら中に入る。
入ってまず目に入ったのは中央の通路である。いや、それしか目に入らない。というのも通路の両側には隙間なく積み上げられた本の山があるからだ。一瞬、倉庫で店舗ではないのではないか、という考えが頭をよぎる。通路の向こうに机があり、男性が何かをしている。こんにちは、と声をかけてみたが聞こえた様子がない。どうやらヘッドホンで音楽を聴いておられるようなのだ。
落ち着いて観察してみることにする。まず、通路の左側は本の山の向こうに普通のスチール棚があり、その前にもぎっしりと本が詰め込まれている。右側の山の向こうに見えるのが、噂の移動式書架だ。なるほど店の奥に向かう形で棚が並んでいる。しかし、これでは客が本を見ることはできないだろう。
手前を見ると二つトレイがあり、そこにA4の印刷物があった。なるほど、これがリストなのである。文学、社会科学というように分かれていて、それぞれが十進法分類で章分けされている。これを見ながら探求書があるかどうかチェックして、あれば注文するというシステムなのだろう。納得し、荷物を床に下ろして本腰を入れてリストを見始める。
と、芸能のところにとんでもないものを見つけた。中川明徳『新作浪曲集 愛の街角』だ。ええっ、中川明徳の新作浪曲集だって。
中川明徳は浪曲全盛期に活躍した浪曲作家で、特に二代目から四代目の天中軒雲月人気に大きく貢献した。興行界の顔役であった永田則雄が重用した人物だったのだ。戦後間もないころに「はりつけ茂左衛門」などの新作を書いていたことは知っていたが、おそらく載っているのはこの本だ。貴重な浪曲資料である。しかも値付けはかなり安い。買いだ、買い。
リストを持って奥に行き、ご主人に声をかける。気がついてくれてヘッドホンを外したご主人に、これが欲しいんですけど、と言ってみた。
ご主人はしばらく無言でリストを見て、ちら、と書棚に視線をやると、時間がかかりますよ、と言った。いや、時間はかかってもいいんです。
それもご主人は困ったような笑いを浮かべて無言である。しかしこちらも後に引くわけにはいかない。ここで買わなかったら二度と巡り会えない本なのだ。
「どのぐらいかかるでしょうか」
「十分、くらいかな」
「待ちます。なんでしたら、送料は置いていくので発掘されたら郵便で送ってくださってもいいです。私、名古屋の人間じゃないんで、そうそう簡単に来られないんですよ」
そこまで言うと、仕方ないと思ったのか、じゃあ、やってみますか、とご主人が立ち上がった。
おお、やってくださるか、と胸が躍ったが、すぐに腰が重かった理由がわかることになる。
ご主人が向かったのは、店の入り口だった。そこに段ボール箱が高く積み上げられたエリアがある。おむむろにそれをどかして、別の場所に積み上げ始めた。実は、そこは移動式書架の棚が動いてくるための空間だったのだ。物があると棚が動かせない。だからまず段ボール箱をどかさなければならないのだ。なるほど、これは大変だ。
作業はこれで終わりではなかった。ご主人はリストを確認すると、移動式書架の列の中ほどに立たれた。前述したように、そこには本の山がある。今度はそれを取り除け始めた。全部をどかすのではなく、腰の高さぐらいまでだ。これで山は凹の字にへこんだ。そこでようやく移動式書架のスライドが開始される。
店と棚の間はだいたい60cmくらいか。凹の字の向こうに狭い空間が現れた。ご主人は本の山を乗り越えると、するっとその中に入られた。小柄なご主人だからいいが、私の体格だと絶対に肩でつっかえる。その中でくるくると本を見回していたご主人が、これかな、とおっしゃって本を抜き出した。間違いない。『愛の街角』である。
ここで私はたいへんなことをしてしまった。待っている間リストを眺めていたのだが、『愛の街角』の下に気になる本がもう一冊あったのである。せっかく大作業をしてくださったのに一冊だけでは申し訳ないと思い、あの、これも、と言いながらリストをご覧に入れた。
ご主人の表情が曇った。え、すぐ下にあるんだから同じ棚を探せばいいんじゃないの、と思ったのだが、実はそうではなかったらしい。リストをよく見ると、後ろに付記で別番号が書いている場合がある。どうやらその本は棚が違うらしいのだ。推察するに、二つの分類にまたがるような場合は、主ジャンルのほうに本を置いて、副のほうにも参考記載をしているのではないだろうか。ご主人は無言で本の洞窟から出てくると、位置を移動し、さっきとまったく同じ作業を開始した。
数分後、無事に二冊の本を手にすることができ、お礼を言って会計をお願した。
「○○○○円だから、二百円サービスでいいや」
そうご主人は言った。いやいやいや、作業費を余分に払いたいぐらいです。
空の鳥文庫、素晴らしい古本屋であった。御器所に来ることがあったらまた寄ろう。ご主人に大変な作業をさせてしまうのは恐縮だが、また本を買わせてもらおう。