杉江松恋不善閑居 対象とする作品にふさわしくない書評というものはある

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某月某日

今抱えている仕事。インタビューの構成×1(イレギュラー1)、レギュラー原稿×3。イレギュラー原稿×1(調整待ち)、ProjectTY書き下ろし。下読み×2。

やらなければならないこと。主催する会の準備×1。

「ミステリちゃん」2022年2月号、その3でおしまい。

昨日のうちに3本は待ってもらっている原稿を書くつもりだったのだが、1本目がなかなか書けない。理由は簡単で、冒頭の1行が浮かばないのだ。

書評はパーツで考えることができる文芸である。あらすじ、構造分析、書誌、執筆者の感想の順に重要で、それらを配置するだけで機械的に作業は終了する。だが、それだけでは対象とする作品が要求する書評にならないことがある。たとえば、とても美しい小説があるとする。文章が繊細で、触れたら壊れるガラス細工のような小説だ。これをツーバイフォーのような材料で作った書評で語ることは正解だろうか。単なる内容紹介ならいいだろう。しかし、作品の持つ性質、特に美しさは決してそれでは伝わらない。それが美しいものである、ということが書評の全体、特に文章から漂ってこないようでは、書く意味がないのである。要らない書評、とまでは言わないが、作品を読もうという気持ちを起こさせる力はないと思う。

上に挙げた材料以外に、全体のデザインのようなものが必要だと私は考えている。レトリックで可能になる場合もあるし、構成をいじることで見えてくるときもある。全体のデザインが終わったかどうかの判断材料になるのが、冒頭の1行なのである。私の場合、ここにふさわしい文章が置けるかどうかでデザイン吟味の完了具合がわかる。うまくはまらない文章しか出てこない場合、まだ吟味が終わっていないのだ。月刊ガロの故・長井勝一編集長は、持ち込み原稿の数枚だけをパラパラと読んで「コース料理のスープを飲んで不味かったら、あとに期待できますか」という意味のことを言ったそうだが、それに少し似ている。冒頭の一行がふさわしい文章にならなかったら、後の全部が駄目なのだ。

この一行をひねり出すのに午前中いっぱいかかって、午後になってようやくなんとかなった。それも完全に得心がいかない状態で書き始めたものだから、けっこう時間がかかってしまう。それでもなんとか、ふさわしい書評にはなったと思う。これでようやく一本。

できればもう二本は書きたかったのだが、もう千代の富士的に言うと体力の限界である。そこで一本、長めの原稿を書くことにした。これは軽快に書けたのだが、終盤になって急に不具合が起きた。どうやらワイヤレスで接続しているキーボードの電池が切れたらしい。これはもう辞め時だと思って、机の前を離れる。またしても一本半の壁は破れなかった。

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