小説の問題vol.26 「人生の暗黒面の描きかた」池井戸潤『架空通貨』&池波正太郎『江戸の暗黒街』

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架空通貨 (講談社文庫)江戸の暗黒街 (新潮文庫)

私は大学で文学部に在籍していたのだが、よくわからない妙な研究を続けていた。他人に「専攻は?」と尋ねられると、

「できますものは、歴史学、日本文学、倫理学、宗教学、西洋哲学、民俗学、経済学、……のようなもので」

と、まるで落語「居酒屋」の小僧さんのような答え方をするのだが、相手は目を白黒させ、聞いてはいけないことを聞いたかのような顔をしてどこかに行ってしまう。ナニ相手にわからないのも当然で、本人にも自分の専攻が何であったのかわかっていないのだ。そのよくわかっていない卒業論文を読まされた指導教授は、さぞ迷惑だったことだろうと思う。よく卒業させてくれたものだ。この場を借りてお礼申し上げる。……読んではいないとは思うが。

さて、その曖昧模糊とした学究生活の中で、身に付いたことというのはただ一つであった。それは、

「上部構造は下部構造に常に規定されるが、限定的な局面においてのみ下部構造の影響を考えなくてもいいことがある」

ということである。

上だ下だとまた曖昧とした言い方だが、つまり人間の精神活動(上部構造)は、物質的な経済活動(下部構造)に常に影響されているということにすぎない。貧しければ、いつも腹が減ったとしか考えられないということだ。何だか哀しくなるくらい幼稚な言い方だが、これが唯物史観の基本の考え方だろう。その上で腹が減ってもいいや、と修行に打ち込んだあげくに即身成仏してしまうこともある、というのが「限定的な局面」の例。

なぜこんな当たり前のことを長々と書き連ねてたかというと、池井戸潤『M1(エムワン)』(現:『架空通貨』)について書くためである。

池井戸が第四四回乱歩賞を受賞した『果つる底なき』(講談社)は、都銀の企業融資に関するディテールを掘り下げ、債権回収担当者の死を巡る謎を描くサスペンス小説であった。元銀行員というプロフィールのためか、今回の『M1』でも、帯に「誰も読んだことのない金融パニック・サスペンス」なる惹句が躍っている。だが、果たして「金融パニック・サスペンス」とはなんぞや?無学のためか、私はそんなジャンルの小説を読んだことはないのだが?そもそも犯罪小説を評するのに、「金融パニック」とは言葉の無駄である。現代社会において、パニックが起きるほどの大きな状況で、他の何が引き金になりうるというのか?例えばそれは、「金が目当ての保険金殺人」というような言葉の重ね方が無駄なのと同じことである。

……というようなイチャモンをつけるのも、本書を傑作と信じるからである。冒頭は意外とオーソドックスに始まる。元商社マンの辛島は、リストラの波にひっかかって職を捨て、今は私立高校の社会科教師として失意の日々を送っている。その辛島が副担任を務めるクラスの黒沢麻紀という女生徒が、ある晩突然辛島の部屋を訪ねてやって来た。物言いたげな様子ながら肝腎なことは何も言わず帰って行った麻紀を気にする辛島だったが、翌日彼女が突然転校の希望を出したことを知らされる。その背景には、麻紀の父親が経営する黒沢金属工業が一回目の不渡りを出したという出来事があったのだ。麻紀の身を案じる辛島は、自らその一件を調べ始め、やがて大きな陰謀の存在に行き当たる。

この小説は、自分が何の上に乗っているかも知らずに踊り続ける人々の物語である。この作者が金の流れについての目利きであることは処女作で既に証明済みだが、今回は金の流れそのものを舞台装置とし、壮大なドラマを書き上げている。

かつてアメリカで大手ピンカートン探偵社に属していたダシェル・ハメットは、当時各地で多発していた労働争議を見聞したことから着想を得て処女長編『赤い収穫』(ハヤカワ文庫)を書いたと言われている。作中では、町の経済という下部構造の歪みが市民をエゴイスティックな闘いに駆り立てるさまが描かれたのだが、それをギャング同士の抗争というスタイルで描いた点がハメットの偉大なところだった。ルポルタージュ的に見聞したままを書くだけであれば、ハメットの名が後世に残ることは無かったであろう。パースンヴィルという鉱山町を設定し、そこで起きた架空の事件という形をとったからこそ、『赤い収穫』は名作となったのだ。

同様に、池井戸は田神町という舞台を作り上げて物語を現実世界から一旦遊離させ、より強固な虚構世界を作り上げた。この世界の中で読者はさまざまな人生の局面を見ることになる。例えば前出の黒沢麻紀が金の流れの中で翻弄されながら、毅然と自立することができるか?(それを、『成長』と呼ぶのである)他にもさまざまな登場人物が出て来るが、一人一人に拘泥せず、群像として描いているところが優れた小説の所以である。

小説には一語一語を味読してしゃぶり尽くすように読んだ方がいい作品と、物語の勢いに身を任せながら一気呵成に読み上げた方がいい作品の二種類がある。前者の代表が、例えば森鴎外の『雁』のような小説だとすれば、後者の代表は田宮虎彦『落城』のような小説である。『落城』は、ある城塞が攻め落とされ、一族が滅び行くまでのさまを冷徹に綴った小説であるが、その勢いはまさに奔流のようであった。また、滅びの詠はその冷ややかさゆえにより胸に迫るものがあった。

真のパニック小説とは、ああいった作品のことを言うのだと私は考えている。そういった意味で『M1』を「パニック・サスペンス」と呼ぶであれば大賛成。読者はシチュエーションの積み重ねの果てに、驚くべき結末に辿りつくだろう。

さて、ハメットが探偵社、池井戸が銀行上がりだとすれば、茅場町の株式仲買店上がりだったのが(誰もそんな呼び方はしないが)、故・池波正太郎であった。その池波の『江戸の暗黒街』が復刊されたので、さっそく手にとって読んだのである。酒脱な時代小説が八篇。もったいないことにあれよあれよという間に読み終えてしまった。

これは『仕掛人藤枝梅安』、『剣客商売』、『鬼平犯科帳』という人気の三シリーズが始められる前から書き注がれてきた、江戸の街を舞台にした暗黒小説である。中心となるのは羽沢の嘉兵衛といった香具師の元締めによって統制されている闇の殺し屋たちであり、彼らが請け負った仕事や思いがけず降りかかる事件の顛末が皮肉に、時にユーモアを交えながら語られる。

例えば、ある女の殺しを住み込みの小女に見られた青掘の小兵次という殺し屋の末路を描く「おみよは見た」。または、父の仇討ちのため放浪の旅に出た夏目半四郎とその仇の井関十兵衛、食い詰め浪人・山口七郎の数奇な運命が乾いた笑いを誘う「だれも知らない」など。中には男によって快楽を知ったために人生を狂わせたおきよという娘を描く「男の毒」のような小説もあるが、「縄張り」(しま、と読む)などは、ギャング映画そのものの抗争劇だ。個人的には「殺」という短篇が好みである。盗賊や殺人といった過去を持つ男の元に、その過去からの使いが突如として現れる。その日常の切断の繰り返しが効果を上げ、結末にしみじみと味わいを残す佳品である。

そもそも暗黒小説の語源であるフランス語のノワール(黒の意味)は、元々アメリカのハードボイルド小説や映画をフランスに輸入するときに名付けられたものである。意訳すれば、「人生の暗黒面を描く物語」とでもいうべきか。池波がフランス映画を愛していたことは有名だが、そのエッセンスはこのように換骨奪胎されて結実したのだ。この作品集を読むと、あらためて池波が時代小説の改革者であったことを痛感させられる。

ただパリの街を江戸に置き換えるだけではこれだけの効果は上がらなかった。江戸の街が人情でなり立っていたこと、武家や商家、職人といった身分の違いが純然とした住み分けによって明示され、それぞれが「恥を知る」「分をわきまえる」といった生き方で意識していたこと、そんな文化を前提にした世界観を確立した上で、初めて「江戸の暗黒街」の絵図を描くことはできたのである。それが池波正太郎の世界であった。

(初出:「問題小説」2000年5月号)

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