小説の問題vol.23 「お父さんとパンジー」志水辰夫『きみ去りしのち』&船戸与一『龍神町龍神十三番地』

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きみ去りしのち (光文社文庫)

龍神町龍神十三番地 (徳間文庫)

今月も新刊と再刊各一冊を採り上げるが、共通項は「お父さんとパンジー」だ。なんだ「パンジー」って?という疑問もあるだろうが、それは最後のお楽しみ。

まず最初、志水辰夫『きみ去りしのち』は九五年に刊行された短編集の文庫化作品。スタンダート・ナンバーで統一された題名が告げるとおり、旧き良き時代への郷愁が全編に漂っている。

表題作の主人公は小学校三、四年生の男の子。以降、中、高、大学生と少しずつ年齢を上げながら、少年の心情を描いていくのだが、彼らの視点で描写される世界が本当に美しい。表題作の「山のほうから吹き下ろしてくる風が、茹でた筍みたいな匂いを運んできた」と描写される夕暮れどき。「余分な色彩のない、真っ暗な山裾に点々と点っているかぼそい光は、幻想的で、夢を見ているような気分にさせてくれ」るという祭の夜。日本語とは、これほどまでに軽やかなリズムを奏でることができるものなのだろうか。

四人の主人公たちは同一人物ではないが、性格はかなり似通っている。「同年輩の男の子くらいぼくのきらいなものはなかった」という「きみ去りしのち」の小学生の「ぼく」と、「昔から、人づき合いは得意ではなかった」という「煙が目にしみる」の大学生の「ぼく」とは、同じメンタリティを共有しているようである。現実の騒々しさから目を背け、自分の内奥に向かい合おうとしているのであろう。これは、物語のベクトルが一貫して過去に向いているのと同じ意図によるものだ。

ところで気になったのは、作中に父親の気配がまったくないことである。これは一貫している。表題作は、父が女を作って逃げたあとの夏休みの出来事を描く作品だ。「TOO YOUNG」では、高校受験を前に控えた主人公の淡い恋の顛末が語られるが、ここでの父親は「こういうときの父を見ると、どこまで鈍感なんだろうと思う」というように、ひどく愚鈍な人物に作られている。続く「センチメンタル・ジャーニー」は短い旅行中の物語であるために本当の父親は出てこないが、その代わりに登場する、主人公に一夜の宿を提供する中年男・利春も明らかに一家のもて余し者として描かれるのである。続く「煙が目にしみる」に至っては、登場人物の一人である小山田の父親の死が明かされるだけ--。

言うまでもなく、父親とは自分自身の未来像の先取りに他ならない。「TOO YOUNG」の主人公が独白するように、「きっとぼくは退屈で、陳腐な、たとえばぼくが親と呼んでいる人と同じような大人になってしまうことだろう」。本書に描かれるような純粋な心情は、その来るべき瞬間の前にしか成立しえないものであり、少年はすぐ大人になってしまう。現に「センチメンタル・ジャーニー」の「ぼく」は一宿一飯の恩義という名目から、頼まれもしないのに利春に手を貸すし、「煙が目にしみる」の小山田もまた父の跡を継いで仕事を始めるのである。

父の存在を空気のように無視しているが、やがて父に似た大人になっていく。

この父子関係の無自覚さは、現代日本の家族意識そのままである。ことさらに家族を求めないが、自分が家族を必要にとする世代になって初めてその重要さを知る関係。志水の描いた四人の少年たちは、いずれも父子の関係を空気のように無視しても生きていられる社会に生きている、現代の日本人なのである。

同じく再刊された梁石日の自伝『修羅を生きる』(幻冬舎アウトロー文庫)に登場する梁の父(『血と骨』のモデル)を見れば、それがよく判るはずだ。朝鮮的な父とは、自分の「骨」(=分身)である息子に頑として人格を認めない、強烈に支配する父親である。儒教精神に身体から拘束された半島の父子関係は実に強固であり、それと比較しても日本人の家族意識が非常に限定的なものであることがわかる。我々にとって自明なものであっても、アジアの隣国との間でさえ共有できないほど特殊なものなのだ。誤解を怖れずに言えば、志水の『きみ去りしのち』は、その日本の特殊性を描いて美しいからこそ、価値がある。

ところで、今月のもう一冊、船戸与一『龍神町龍神十

三番地』における父子関係は志水とまったく異なっている。本書においては、特定の父子関係が全面に押し出されることはないが、伏流として潜む父子関係の問題を抜きにしては、この小説のテーマは理解できないのである。

検証していこう。まず、『龍神町』は船戸にしては珍しく、日本の地方村を舞台にした小説である。極めて優れたジャーナリストでもある船戸が好んで取り上げるのは、国際情勢の火薬庫といえる第三世界である。通常の船戸は帝国主義が破壊し、解体した第三世界が資本主義の浸透によってねっとりと腐っていくさまを描く小説家なのだが、これにはどうした意図があるのだろうか。

また、船戸小説には珍しいことに、本書には常套的なハードボイルドの装いがなされている。主人公の梅沢信介は元刑事で、無抵抗の殺人犯を射殺したことから服役した過去を持つ男。その彼が、長崎県五島列島のある町にやって来たのは、町長を務めるかつての旧友の依頼で、不可解な死亡事故の裏を調べるため、というのはいかにも典型的な私立探偵小説の出だしではないか。

だが、読み進めていくに従って、物語は見慣れない形を作り始める。この町がある龍ノ島というところは、公共事業によって小バブルを迎えた島である。何しろ工事の作業員のために売春宿が建設されたが、土地を提供したのが小学校の校長、資金を提供したのが龍ノ島派出所の所長だというのだから、モラルは完全に崩壊している。しかも今はその反動で地場産業は崩壊し、男たちは出稼ぎのため離村するという体たらくだ。

龍ノ島はもともとかくれキリシタンの島なのだが、元から島にいた居つき組と、他の島から来た移住組は仲が悪く、反目しあっている。それらの危ういバランスの上に立って島を支配しているのは、龍ヶ池神社の神主と派出所長の諸井巡査部長だ。つまり、親と子という血縁の関係よりも地縁で結ばれた共同体のしがらみの方が優先されるのが、この龍ノ島なのである。これは民俗学でいう親方/子方という社会関係に近い。

非常に大雑把に言えば、龍ノ島は島全体で大きな擬似家族を構成しているのだ。当然その中では、近代的な、我々が家族として認識するような関係はないがしろにされる。その結果あちこちに姦通がはびこり、父親のない子供が産み落とされている。これが父親の不在である。しかもそれをモラルの崩壊が後押ししている。

こうして見て行くと、船戸の意図したことは明らかだ。前近代的な因習が支配する共同体に資本主義が流入し、その結果モラルが崩壊し、拝金主義が横行する。なんのことはない、これは船戸がいつも書く、第三世界の腐敗と同じものではないか。船戸があえて日本を舞台にしてこの小説を描いたのは、第三世界で引き起こされている悲劇が決して他人事ではなく、本来日本にも起こりうる問題だからである。核家族を前提として成立する日本式な幸福なんて、幻のように脆いものであることを彼は鋭く指摘している。それだけに一読の価値ある小説なのだ。

さて、おしまいに「パンジー」の種明かし。『きみ去りしのち』の「パンジー」とは、「煙が目にしみる」で主人公が観察しているカワセミのあだ名である。元ネタはアメリカのハードボイルド作家アンドリュー・ヴァクスのヒーロー、バークが飼っている猛犬の名前。この犬は飼い主以外には決して心を許さないのだが、カワセミ「パンジー」も決して主人公以外には姿を見せないのである。

かたや『龍神町』の「パンジー」とは、島を牛耳る警官・諸井のあだ名だ。額が狭くチンパンジーに似ているから「パンジー」。諸井が猿山を支配するボス猿のごとく島を支配していることを考えると、これは単なる風貌だけに起因するものではないような気もする。心を許さず孤高を保つ「パンジー」と、精力剥き出しに他人を支配しようとする「パンジー」。この「パンジー」たち、よく見るとそれぞれの小説の特徴を表しているようで、おもしろいではないか。

(初出:「問題小説」2000年2月号)

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