芸人本書く列伝classic vol.50 立川吉笑『現在落語論』

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現在落語論

立川吉笑『現在落語論』(毎日新聞出版)は、一言で表すなら「完璧」である。

落語論として完璧である。何が完璧なのかと言えば、現状分析である。吉笑の大師匠に当たる立川談志は「現状分析の出来ない者のことを馬鹿と呼ぶ」と定義したが、その伝で言えば吉笑はこの一冊で己が馬鹿ではないことを証明して見せた。自分の立つ位置の観察・分析が完全に出来ている。

本書は四章に分かれており、第一章は落語という芸能の定義に使われている。章題のとおり「落語とはどういうものか」が主題である。そして、第二章「落語は何ができるのか」では前章の定義を引き継いで、この芸能に可能な表現とは何かということが書かれている。どんなジャンルにも向き不向きの題材というものがあるのだが、それがはっきりと言及されるのだ。無闇矢鱈とジャンルを誉めそやすだけ、根拠もないのに「○○は最高」と持ち上げるような素人評論と一線を画しているのは、著者が己の向き合っている題材をきちんと量的に把握できているからだ。

そして第三章では「落語と向き合う」と題し、自身がどのような形で落語という芸能に出会い、魅了され、その中で生きるようになったかということが導線として使われる。自身の体験を例に引くのは上手いやり方だ。ここで吉笑は三つの大事な概念について言及している。そのことは後でやや詳しく紹介するつもりである。

第四章がアジテーションにあたる部分で、未読の人はこの章だけを読むと本を買おうという気になるはずだし、本を最後まで読んでしまった人は、この部分について誰かに語りたくなるはずだ。本書は「まえがき」に「落語が『能』と同じ道をたどりそうなのは、たしかである」という談志の文章を引いている。有名すぎるほど有名なのでご存じの方は多いはずだが、談志の最初の評論書である(最初の著書ではない)『現代落語論 笑わないでください』(一九六五年。三一新書)の結びの文章である。

落語というジャンルが隆盛を極めていた時期、現役落語家の中では談志ただ一人がその中に翳りを見出し、はっきりとした形で警告を発した。その内容を繰り返すことは煩雑になるので止めておく。結果のみ書くと、落語が談志の言ったような「能と同じ道」をたどることはなかった。予言が外れたのではなく、演芸者たちの努力によって運命が変えられたのだ。その旗頭となったのは、もちろん談志である。

『現代落語論』刊行から五十年という節目の年に一文字だけ違えた題名の本を出し、しかもそのまえがきに談志の言葉を引用したというのは、無論吉笑の覚悟を示すものである。第四章でも明確に書かれているが、談志の警告とは異なる種類の危機がこのジャンルには迫っており、それを放置すれば別種の崩壊が待ち受けているということを吉笑は指摘している。ここには詳しく書かないが、挙げられている要因は二つだ。一つはジャンルに内在するもの、もう一つは外圧である。後者に関して吉笑は、あえて『現代落語論』をもじる形で悲観的な意見を述べている。

二つの要因への対策は、いまだ吉笑の中にはないか、あるとしても立場として言えないかのどちらかだろう(おそらくは後者だ)。そのためにひとまず問題提起を行い、自身の考えを言語化することを選んだ。そうしておけば必ず反応が起きるはずだからである。上にアジテーションと書いたが、その矛先は自分と同じ演芸者、そして芸を受け止める観客の二方向へ据えられている。反応はきっとあるだろう。そう思わせるだけの力強さが、この本には宿っている。したがって、本書を読むか読むまいか迷っている人にはぜひ手に取ることを、そして吉笑の決死の発言である第四章だけでも目を通すことをまずお薦めしておきたい。

読みながら付箋を貼りまくったぐらいなので、各章には示唆に富んだ文章が詰まっている。帯には「なぜ座布団に正座するのか――「下半身を省略」するためです」というコピーが載せられているが、これは第二章から採られたものである。ごく簡単に書くと、落語という表現形式には隙間が多く、さまざまな要素を省略することによって成立する部分が多いということが第二章には書かれている。人物や風景の描写、時間経過といった「ものがたり」を行う上での要件が、最小限といってもいいほどの素材で組み立て可能なのである。私は本来小説という表現形式を主に扱ってきた人間なので、吉笑の以下のような指摘には思わず膝を打つほどに感心させられた。

小説のように文字表現で読んだりする反復表現はともすれば煩わしく感じてしまうこともあるけど、落語の場合は、不思議と同じような状況の反復がリズミカルで心地よく感じられるケースが多いのだ。

落語は「オウム返し」と呼ばれる、反復がよく行われるジャンルだ。同じことの繰り返しがなぜ観客に心地よさを感じさせるのか(そして同じことを文字表現でやると正反対のことになるのか)が、このくだりでは詳細に分析されている。その他、演者の身体を唯一のメディアとして用いる表現であることから生じる利点や欠点を、漫才や漫画などの他ジャンルとの比較でわかりやすく説いたくだりも非常におもしろい。逆に言えば、そのメリットやデメリットを覆すことができれば、その表現者はたいへんな発明をしたことになる。この第二章は、それほど落語に関心がない人にもぜひ一読をお薦めしたい。きっと、「俺だったらこうやってやるのに」と挑戦してみたくなるはずである。

そして第三章だ。ここで吉笑が使っている三つのキーワードが「擬古典」「ブースト」「ギミック」である。立川志の輔と立川談笑という二人の演者を尊敬する対象として例に挙げ、この三つのキーワードがなぜ重要なのかを解説していく流れがスリリングなほどおもしろい。「擬古典」というのは「新作落語」を現代ではなく「古典落語」と言われる噺が舞台とするような作品世界に戻して作り、演じるということである。古典落語に出てくる世界の時代設定は実に曖昧で、江戸なのか明治なのか、ちょんまげはあるのか無いのか、金の単位は両なのか円なのか、わからない。わからなくても成立するのである。現代人がぼんやりなんとなく「むかし」と感じるような世界であればいいということだ。吉笑はその舞台の有利さ、有効さを理解した上で、現代人にとって理解しやすい題材・心性が描かれた噺を、現代ではなく、ぼんやりとしたむかしを舞台として演じることを選択している。それが可能になるのは「古典落語」というものが実はちっとも古典ではなく「偽古典」だからなのだが、そのことは、今は措く。

そうして「擬古典」の落語を吉笑が提唱し、自ら創作し続けるのは、落語の伝統性ではなく大衆性を重視するからだ(そのへんは第一章に書かれているので省略する)。そこで重要なのが「ブースト」すなわち、噺のどの部分を強化してお客に届くようにするかということだ。デフォルメと言ってもいい。「ギミック」は、現代人と噺が接点を持てるようにするための切り口、視点である。それを手がかりに演者は観客の心を掴む。

創設者である立川談志がそうであったからか、立川流には自身の落語にテーマを見出そうとする演者が多いが、その系譜を受け継いだ考え方と言っていいだろう。立川流だけを聴いているとわからなくなるが、すべての落語家がそうなのではなく、「落語はふんわりとしたものでテーマなんてあって無きが如しだよ」という姿勢の者もいるのである。これはどっちが良い悪いの問題ではなく、どう演じても大衆から支持されたほうの勝ちというだけの話だ。

この「ブースト」を理解させるためのツールとして効いてくるのが、志の輔・談笑が「古典落語」の噺について何を本質として掴んだかという例示である。たとえば「たらちね」という噺について談笑の考えを書いた以下のくだり。

この古典落語を自分なりに面白くアレンジしようとするとき、ぼくを含めて多くの落語家は「口調がていねいすぎる」(注:そういう人が出てくるのです)という部分をブーストしようとする。言葉がていねいすぎることによって生じる問題を追加したり、細かく描くことで笑えるポイントを増やそうとするのだ。

でも、師匠の見方はまったく違った。

師匠は、この噺で強調すべきポイントを「突然、結婚できることになった男のうれしさ」だと言う。

私事になるが、私は十代のころ結構な落語オタク(という言葉はまだなかった)で、少ない落語仲間と噺談義をするのを楽しみにしていた。そのとき最も盛り上がったのは「この落語の主人公は役者で言えば、たとえば誰か」「この落語を省略していくと何が残るか」という話題だったのである。後者は、私たちが八代目三笑亭可楽という、どんな噺をやってもだいたい30分かからないで終えてしまう省略の名手(というか乱暴な芸)の落語家が好きだったことからきた話題だ。たとえば大ネタと言われる噺も、その中核にある部分だけを残して省略すれば、20分でできるのではないか。そういう思考実験をよくやっていたのである。前者の配役を考える遊びは今でもやっていて「この話を映像化するときはカンニング竹山を出すことができるだろうか」などとぼんやり考えることがよくある。

閑話休題。そういう過去があるものだから、吉笑が師匠・談笑の言葉に胸を打たれたのはよくわかる。吉笑が何をしたいのか、ということが理解できたような気がしたのは、実は第三章のこのくだりを読んだときだった。落語なんてテキストをそのまま演じればいいだけのもの。落語ファンにはそういう考え方の人はあまりいないと思うが、何かオリジナルがあり、それを日々なぞっているだけ、という風に落語を見ている人はファン以外には多いはずだ。それに対する有効な反論はこれではないかと思う。テキストの中に何を見出し、それを抽出して自身で再構成を行うか。しかもテキストをできるだけ壊さずにそれをすることができるか。落語のそうした部分に私は魅力を感じるのだ。

吉笑は発展途上の落語家である。自身でもこう書いている。

落語という表現にはありとあらゆるものを具現化するキャパシティがあるけど、そのためにはもちろん技術が必要で、ぼくはそんな技術をまだまだ吸収しきれていないのだ。

談志は晩年「江戸の風」という概念を提唱した。定義の難しい言葉だが、その中には「観客を心地よくさせるリズムや調子」といった「伝統」に裏打ちされた技術も含まれているはずである。吉笑は本書の中であえて「大衆芸」としての方向に舵を切るとの宣言を行っているが、その背景には伝統の部分でまだ背負いきれていないものがあるという見切りもあるだろう。それを身につけるまで待っていては大衆の支持を得る前に老いてしまうので、あえて今ある武器で勝負することに決めたのだ。そういう意味での未熟さは二ツ目ならば許容されるべきことで、「大衆はあっても伝統には沿っていない」と吉笑を批判することにはまったく意味がない。むしろ今は、成長していく吉笑が、これからどんな武器を増やして行くだろう、と見守ることのほうが大事だ。その意味で本書は重大な決意表明の一冊である。これでもう吉笑は落語家を辞められなくなった。『現在落語論』を背負って、これからの人生を歩むしかなくなったのである。

本書に足りないものがあるとすれば、師匠・談笑からの推薦の辞だろう。おそらくは自分が二ツ目の身分だということで、あえて遠慮したのではないか。

そこでたいへん僭越ではあるが、私がそれを代行しようと思う。もちろん私自身の文章ではない。吉笑の師・談笑の師、談志のそのまた師である五代目柳家小さんが、弟子・談志の『現代落語論』に贈った言葉だ。「談志」の部分を「吉笑」に変えて読んでもらえればと思います。

まだまだ未完成の談志の書いた本。そのつもりで読んでもらったらと幸いと思います。楽しく読めると思います。(柳家小さん)

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

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