杉江松恋不善閑居 「蜘蛛のこと」

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家にしばらく蜘蛛がいたことがある。

いや、蜘蛛はいつもいる。ごきぶりなどを捕食してくれる益虫だという気持ちがあるので、見かけても放っておくようにしているからである。机の周りにはいつも蠅取り蜘蛛というのか、小さくてやたらと跳ねるのがいて、こちらが手を出さないのがわかっているのか、キーボードやディスプレイの上などに這ってきては、我が物顔でそこらをうろついている。

一度ネットで、パソコンの画面を動くカーソルを餌だと勘違いして飛びつく蜘蛛の映像を見たことがある。家の蜘蛛もそういう悪戯をしないかと思い、ディスプレイの前にやってきたときなど、これ見よがしにカーソルを動かしてみた。しかし、近眼なのか、それとも人間のつまらない企みなど見抜いてしまっているのか、蜘蛛はぴくりともしなかった。

家にいた、というのはそういう小さな蠅取り蜘蛛のことである。一階に洗面台があるのだが、ある日そこに蜘蛛が居着いてしまった。半球形のボウルの上端、庇になっている部分の下に居て、じっとしている。人間が近づいたぐらいでは動かないのである。最初に見たときはもっと下にいて、半球形の底にある排水弁近くで頑張っていた。歯を磨いて水を流したかったのだが、水勢を強くすると蜘蛛まで流してしまいそうであり、おそるおそるカランを動かした。水は排水弁の周りを太極図のような塩梅で流れていき、蜘蛛は無事であった。そんなことが何度かあったのだが、だいたい蜘蛛は庇のほうに上がっていて、気を遣わなくて済むことも多かった。

もしかすると、巣のようなつもりでいるのだろうか、と思った。蟻地獄のように、上から落ちてくる小さな虫などを待っているのかもしれない。外と違って虫などはそうそう落ちてくるものでもないと思うのだが、それは蜘蛛の勝手だからかまわない。困ったのは、排水弁の掃除が出来なくなったことである。

洗面台のパイプはS字形になっているので、曲がったところをときどき綺麗にしてやらないと詰まってしまう。そのためには薬液を流さなければならないのだが、人間の皮膚でさえ、誤って触ってしまったら即座に洗い流せ、と書いてある劇薬である。蜘蛛がいくら面の皮が厚くとも、それに触れればひとたまりもないだろう。

掃除はしたいが困ったものだ、と考えているうちに数日が過ぎた。ひょい、と洗面台を見ると蜘蛛がいなくなっていた。自分でどこかに行ったものか、それとも誤って流してしまったのか。

気になったので学校から帰宅した子供に聞いた。

しばらく放置していたが、だんだん気になってきたので、手に取ってどかし、土間に逃がしてやったという。

それはそれで良いことであるが、あれだけ気にしていた蜘蛛の行方を見届けずにしまったというので、その後しばらくは落ち着かない気分がした。

パイプの掃除はその日から一週間もやらずにいて、あ、そうだった、と気づいて薬液を流した。

新年あけましておめでとうございます。川浪いずみさんの「本とせいかつ」最新回もご覧ください。

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